病気と共に生きていく

曲がった膝が真っすぐになるよう、両親が毎晩優しく押してくれた

(本人提供)
(本人提供)
山本和男さん(66歳)=若年性突発性関節炎(若年性リウマチ)

 母親が教えてくれたのは、私が3歳くらいの時に痛みを訴えたそうです。症状が出始めた当時のことは、夢の記憶のように思い起こすことができます。

 最初に痛みが出たのは、両足の膝でした。骨が破壊されていくような痛みで、拘縮も伴い、次第に膝がくの字に曲がっていきました。その曲がった膝を両親が、少しでも真っすぐになるよう毎晩、優しく押してくれていた姿を覚えています。

 日常的に痛みはありましたが、小学校入学前になると体力もつき、近所の子供たちと痛みが強くなるまで、遊んでいました。区切りをつけ家に帰ると、痛みで座敷に上がれなくなって、上がり框(かまち)の下でうずくまっていたことなど、子供ならではの思い出もあります。

 その頃、市内の開業医で診察を受けていましたが、当初は病名が分からず、いくつかの病院を回りました。ようやく、当時の病名「若年性リウマチ(現:若年性特発性関節炎)」と診断がついたのは、小学校入学を控えた6歳ごろだと記憶しています。市内の県立厚生病院でした。血液検査の血沈の値、具体的な症状から診断されたものだと思います。

 ランドセルも買ってもらい新1年生となり、しばらく小学校に通っていました。しかし、当時の主治医の「1年遅れても治療に専念するべきだ」との判断のもと、入学して数カ月で休学。1年間治療に専念しました。今のような効果のある抗リウマチ薬はなく、当時は筋注射が治療の中心でした。ガラスの注射器の時代です。しかしながら、さほどの治療効果も得られないままで、翌年、1年生として学校生活を再スタートさせました。2年の春、主治医の紹介で、米子にある鳥取大学付属病院に検査入院することになりました。治療の中心は、やはり筋注射。左右のお尻に代わる代わる打たれていました。

 小児病棟では、幾多のドラマに接しました。毎日新生児が新生児室に運ばれてくる一方で、何人もの子供が旅立っていった。子供でもこんなに亡くなっていくことに驚きました。その中でも、たまたま同じ日に入院した、リウマチの女の子が亡くなった時のことは鮮明に覚えています。お父さんがタオルケットで体を包み、個室から出ていかれたことは当時の私には衝撃でした。

 退院は半ば強引でした。長引く入院と、学習の遅れを子供ながらに心配してのことでした。その後寛解となり、楽しく学校生活を送っていましたが、小学5年の秋、突如再燃期に入り、リウマチと共存する生活が始まりました。

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