現在の日本は、これまでに経験したことがない高齢化社会に突入している。国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来推計人口」によると、日本の人口は9年後の2029年に1億2000万人を下回り、その36年後の65年には8808万人まで落ち込むという。
一方で高齢者の数は増え続け、ピークを迎える42年には65歳以上が3935万人に膨らむ。その後は高齢者の数も減り始めるが、高齢化率は上昇を続けて65年には国民の2・6人に1人が65歳以上になるそうだ。医療や介護が必要とする人は増え続けるのに、それを担う人は減り続ける格好である。そんな中で我々は人間らしい穏やかな死を迎えられるのだろうか。それは死を忌み嫌う今以上に困難なように思われる。
「その人らしく死ねるように支援するのは、もしかしたら“負け戦”かもしれません。近い将来は人手が足りなくなり、高齢者はオムツを替えてもらうこともできなくなる。入院から在宅医療への移行や介護医療院の創設などは国策として悪くないし、ロボットの導入など医療のオートメーション化もせざるを得ないと思います。それでも多死社会への備えとして十分だとは言えないでしょう」
■足りない「多死社会」への備え
もともと日本では制度の見直しが後手後手になってきた。在宅医療についても、国は病院にはめた足かせをなかなか外そうとしなかった。
「国は現在、膨張する医療費の支出を抑えるために病院よりも治療費が安い在宅医療を推進しています。訪問診療の報酬も外来よりも高く設定されるようになりました。ただし、同じ訪問診療でも、診療所と病院(200床未満)に同じ診療報酬が払われるようになったのは2010年になってからです。06年に在宅療養支援診療所制度がスタートした時は、診療所以外で対象となるのは、半径4キロ以内に診療所が存在しない病院に限定されていたのです」
普通に考えれば、医師が一人で対応しているような診療所よりも、大勢の医師が在籍する病院の方が訪問診療をやりやすいはずだ。インフルエンザが流行している時期になれば、診療所は近所の子供の診察で手いっぱいになる。そんな中で往診に行くのは困難だろう。それでも国は「往診は診療所が担うべきもの」としてきたのだ。
「4年のブランクの間に希望するような最期を迎えられなかった人もいるのです。国会議員は高い集票力を保持する医師会を恐れて顔色をうかがっているので、厚生労働省も何かと気兼ねしてしまう。そのため診療所の経営に影響するような制度変更に手をつけづらい構図が生まれているのだと思います」
改革の遅れは、医療側による「患者の選別」まで招いてしまっていたという。
「16年の診療報酬改定で、よりきめ細かな診療が評価されるようになりましたが、かつては重症度によって報酬が違うということもなかったので、患者を選んで利潤を追求するような傾向も見受けられましたね。往診の際は、手がかかる重症患者の家を回るよりも、軽症な患者だったり、一度の訪問で複数の患者を診ることができる団地や施設を回ったりする方が効率がいいと考えられていたのです」
日本では国民皆保険制度と、保険証一枚で自由に医者を選べるフリーアクセスによって、国民全員がいつでも同質の医療を受けることができるようになっている。こうした独自の医療保険制度が、世界有数の長寿国を実現したのは間違いない。
その大枠を守りながら、超高齢化社会の中で、いかにして患者に寄り添う「死なせる医療」を充実させるか。医者が稼ぐための医療ではなく、患者のための医療を優先できるのか。突きつけられた課題は重い。
死なせる医療 訪問診療医が立ち会った人生の最期