上皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

先人が取り組んだ感染症対策が外科手術を大きく進歩させた

天野篤氏
天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

 手術中の感染症を予防するためには、正しい手洗いが基本中の基本になります。医療者の手に付着している細菌が患者さんに感染して感染症を起こすと、命に関わるケースもあるからです。

 いまは一般的なせっけん液で揉み洗いした後、アルコール製剤を擦り込む方法が広まってきています。かつては10分近くかけて手洗いしていましたが、3分ほどでも有効なことが科学的な検証で明らかになっています。

 そんな外科医の「イロハのイ」と言える手洗いの重要性を世界で初めて訴えたのは、19世紀半ばに活躍したイグナーツ・ゼンメルワイスというハンガリー出身の医師でした。ゼンメルワイスがウィーン総合病院の産科で働いていた当時は、医療者が診察前に手を洗う習慣がなく、産褥熱の発生数や死亡率の高さが深刻な問題になっていました。産褥熱とは、産後24時間から10日以内に、2日間以上にわたって38度以上の発熱が続く熱性疾患の総称で、分娩の際に生じた傷から細菌が子宮などに入り込み、感染することで起こります。

 産褥熱の原因を調査したゼンメルワイスは、医師が“感染性の粒子”を手に付けたまま患者を診ていることを突き止め、治療前に手を消毒するよう義務付けました。すると、産婦の死亡率が激減したのです。このことから、ゼンメルワイスは「医療者は次の治療に臨む前に手指衛生を徹底するべき」と訴えましたが、当時は病原菌の存在すら知られていなかったため、医学界では受け入れられませんでした。ゼンメルワイスは嘲笑の対象となり、神経衰弱に陥って不遇のまま47歳で亡くなります。

 ゼンメルワイスの功績が認められたのは、19世紀後半に感染症は病原菌によって起こることが発見されてからでした。いまでは「感染制御の父」と呼ばれています。

 同時期の19世紀後半には、ドイツの外科医シンメルブッシュが手術器具類の煮沸蒸気消毒法を確立しました。100度程度のお湯や蒸気で病原菌を死滅させる方法で現在はほとんど行われていませんが、「シンメルブッシュ式」という名前が残るくらい画期的なものでした。

 その後、目的の病原菌だけを殺す「消毒」に加え、増殖するあらゆる微生物を完全に除去する「滅菌」へと発展していきます。そんな研究や検証が進んでいく中で、細菌そのものが悪さをする場合と、細菌が出す毒素が悪影響を与える場合があることがわかりました。また、比較的、熱に強い細菌や、酸素がない環境でも増殖する嫌気性菌というタイプも判明しています。

■手術用手袋は二重装着が推奨されている

 このように、外科手術の進歩は感染症対策に取り組んだ先人たちによってもたらされたのです。実際、手洗いをはじめとする消毒や滅菌といった分野は、医療における「トランスレーショナルリサーチ」(橋渡し研究)の“はしり”と言っていいでしょう。基礎研究で得られた成果を臨床に応用し、さらに臨床での結果を基礎研究にフィードバックして新しい医薬品や医療機器の開発につなげ、医療の発展を目指す方法です。

 手術時に装着する手袋も、感染症対策から発展してきたもののひとつです。いまは滅菌処理が施されたうえ、天然ゴムアレルギーを避けるためにラテックスフリーおよびパウダーフリーの手袋が使われています。

 さらに、WHO(世界保健機関)をはじめとした国内外の「手術ガイドライン」では、手袋の二重装着が推奨されています。抗生物質が効かないMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)などによる感染症を防ぐためです。

 外科医の中には、手洗いなどで使われる消毒液やアルコール製剤に対して免疫が働き、アレルギー反応を起こす体質になってしまう人がいます。これは「感作」と呼ばれる状態で、2度目、3度目になるとより強い反応が出るようになります。そうしたアレルギー反応によって、手にMRSAなどの耐性菌が付着した状態が残ると、術中に使用する手術機器操作による影響から指先が触れる部分で意図せずに耐性菌を置いてきてしまい、感染症を引き起こす原因になるのです。

 手に付着している耐性菌は、手袋をしていてもピンホールと呼ばれる微細な穴から術野に漏れ出します。しかし、二重に装着するとピンホールの発生率が有意に少なくなるうえ、耐性菌の漏れを防ぐことが報告されています。実際に順天堂医院での心臓手術ではこの方法と、もうひとつの独自の創部管理で術野感染症をほぼ制御しています。

 手洗いに代表される感染症対策は、今後もさらに進化していくでしょう。

天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

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