前回までにお話ししたように、患者さんを守るための「医療安全」や「EBM(根拠に基づく医療)」という考え方が登場したのは1990年代からで、広く浸透したのはコンピューターが普及した2000年以降といっていいでしょう。それまでは、医師の経験や勘、習慣や伝統に頼った医療が主流でした。客観的な大規模データが不足していたからです。
そうした客観的な大規模データをベースにして、患者さんによりエビデンス(科学的根拠)の高い治療を提供するために各学会でガイドラインが作成され、標準治療という考え方が浸透してきたことによって、ここ10年ほどは医師を育成する医学教育の段階から、医療安全やEBMの重要性を教えていくようになりました。
私が医学生だった1970年代後半は、もちろん医療安全やEBMといった考え方はありません。人々を集合として捉え、国や市町村といった社会レベルで健康を扱う「公衆衛生」と呼ばれる分野はありましたが、個人レベルで健康を扱う臨床医学が中心でした。
それが、いまはその公衆衛生に医療安全、医療倫理、EBMなどの考え方が組み込まれ、学生時代に学ぶ問題の6~7割は公衆衛生が絡んでいます。
たとえば、ある疾患があって、医師がその疾患に対してどのような治療をすればいいかを考える時、かつてはその患者さんが抱えている背景=因子は無視されている状態でした。しかし、たとえ同じ疾患だったとしても、患者さんによって生活パターン、食事や運動の習慣、喫煙や飲酒の状況、ストレスを受ける環境などの背景は異なります。そして、そうした背景こそが疾患の原因になっているケースが多いことから、遺伝的背景や生活習慣は解決の糸口にさえなっているのです。
これは、公衆衛生に関わる客観的な大規模データが出てきたことで明らかになってきた「生活習慣病」という概念で、それまではたしかな根拠はありませんでした。それがいまは患者さん一人一人の背景によって、適切な治療が変わってくるという考え方が当たり前になりました。医師国家試験でも、その患者さんの生活習慣から予想される状況において、どんな治療がいちばん安全かつ効果があるかを考えさせる問題が増えています。いまの医学生は、以前よりも覚えるべきことが多くなったといえるでしょう。
■医療機関の経営にとっても重要
こうした医療安全やEBMに対する考え方は、医療機関の経営にとっても重要です。医療機関にとって最も理想的なのは、「ひとつの治療に対する患者さんの在院日数が少ない」状態です。そのためには、合併症や後遺症をつくらないようにすることが大切です。ひとつの疾患に対してばちっと当てはまる治療を行って、合併症も後遺症もなく、患者さんが純粋に回復して健康的な生活を取り戻せれば、次から次へと新しい患者さんが訪れる好循環が生まれます。患者さんを守る医療安全やEBMは、その好循環をつくり出すために欠かせない考え方なのです。
逆に、医療安全やEBMを軽視して1例ごとに問題を起こしてしまうと、入院が長引いてしまううえ、問題に対処する医療経費もかさんでいきます。経営的な観点で言えば、利益が出にくくなってしまうのです。
また、医療安全やEBMにのっとらない形で医師や看護師ら医療従事者が患者さんとの間でトラブルを起こしてしまうと、本業である医療以外の分野で多大な労力を使うことになります。場合によっては訴訟を起こされ、弁護士と対峙するケースもあり得るのです。これでは、本業がおろそかになってしまいます。
医療安全やEBMは、患者さんを守るだけでなく、医療機関や医療従事者を守るという側面もあるのです。
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