独白 愉快な“病人”たち

音楽を生業にしているのに…月光恵亮さん難聴との闘い語る

月光恵亮さん
月光恵亮さん(C)日刊ゲンダイ
月光恵亮さん(元音楽プロデューサー、画家/68歳)

 最初に症状が出たのは2008年、56歳のときです。突然、両耳がまったく聞こえなくなったんです。目の前で話している人の口が動いているだけ……。ただ、そのときは1時間ぐらいで症状が治まったので、あまり気にしませんでした。

 でも、その3年後の11年にまた症状が出ました。プロデュースしていたアーティストの楽曲のミックスをしているときにエンジニアから指摘され、ヒット曲を作るために重要な8キロヘルツ辺りの高い音域が聞こえていないことに気付いたんです。この音域の音は、上げすぎても下げすぎても良くないのに……。

「これはやばいかもしれない」と慈恵医大に行って診てもらい、耳の中に薬を入れる治療を受けました。しばらく仕事を減らし、通院して治療を続けたら多少は改善したのでホッと一息でした。

 それでつい、また仕事を増やしてしまいました。15~16年にかけてLINDBERGHの配信用の新曲3曲をプロデュースしたんです。すると、仕事が終わった頃には前よりさらに低い音――主流の周波数である4キロヘルツ辺りの中音域も聞こえなくなっていました。

 音楽を生業にしているのに耳が聞こえないなんて……とにかく焦りました。でも、40年以上、音楽だけをやってきたので音楽以外で食べていく方法を知りません。ですから、音楽を続けるしかありませんでした。

 弟子のような存在だったギタリストに現場についてもらってサポートしてもらいながら、何とかプロデュース業を続けました。ただ、難聴は治らない病気。もともと耳が弱かったうえ、長年耳を酷使し過ぎたことが原因です。聞こえが徐々に悪くなっていくのがわかりました。

 それで一昨年、「もう限界だな。これ以上やったらまったく聞こえなくなってしまう」と思い、「High NA(ハイナ)」というグループのシングルを手掛けたのを最後に、プロデュース業とは決別する決心をしました。

 実は、音楽業界には難聴を患う人が少なくありません。人工内耳の手術を勧められたこともあります。でも、僕には合っていないと思い受けませんでした。今は通院もしていません。

■補聴器は自分に合わなかった

 補聴器は試してみたことがあります。耳鼻科に通っていた12年ころ、片耳20万円かけて、ちゃんと自分用に調整したものを作ったんです。ところが、それを着けて東京駅の八重洲口前の大きな横断歩道を渡ろうとしたとき、自分のそばをトラックが通り過ぎた瞬間、ガーッとものすごい音が脳を直撃して、脳振とうを起こして倒れてしまいました。それで、「危険だな」と思って使うのをやめました。補聴器はずっと耳に入れておけて、着けたり外したりしなくていいから便利なんですけど、僕には合わなかったんだと思います。

 試行錯誤した結果、2年ぐらい前から「集音器」を使うことで日常の音の“ステレオ感”をギリギリ維持しています。僕が使っている集音器は、顎の下あたりにある左右のマイクで拾って相当大きくした音を、耳に入れた骨伝導イヤホンで聞く仕組みになっています。僕は両方の耳にこのイヤホンを入れていますが、補聴器より耳にやさしいと感じ、合っていました。今はこれを着けないと、音はもうかすかに聞こえるだけですね。

 集音器は外出して人と会うときだけ使用しています。ただ、着けても女性の高い声は聞き取りづらいですね。後ろからクルマや自転車が近づく音に気付かず、ときどきひかれそうになったりもします(笑い)。すごく不便ですよ。でも、不思議なことに電話は使えるんですよね。

 音楽を聴けなくなって、そりゃあ寂しいです。「沈黙の世界」ですから。ただ、聴力はゼロではないので、新しい音楽をどうしても聴きたいときは、短時間ならイヤホンを着けてボリュームを上げれば聞こえます。普通、音楽って「聴くもの」だと思っていますよね。でも、僕は記憶の中に素晴らしい音楽がたくさんあって、いつでもすぐに頭の中で鳴らすことができるんです。音色も含めて。

 それに、音楽は僕にとっては鑑賞するものではなく「つくり上げるもの」なんです。

 だから、今は音楽に代わって絵を描くことで、創造への欲求を解消できています。絵を描いている間は、音楽をつくり上げている時間と変わらないんです。

 僕の祖父は、京都にある世界遺産の龍安寺の襖絵を描いた絵描きで、僕も子供の頃から絵が描けました。引きこもり気味で絵ばかり描いていたので、心配した兄が引っ張りだそうと音楽を聴かせてくれて、僕の人生が変わったんです。

 耳が聞こえなくなって音楽を奪われていったとき、また少しずつ描くようになり、3年前に大きな過ちを犯した頃から「これからは絵を自分のメインにしよう」と思い、本格的に始めました。耳が聞こえていたら、おそらく絵をもう一度描くようにはならなかったと思います。

 この3年で700点ほど作品を描き、20年2月には個展を開催しました。作品はタブレットを使ったデジタル絵、キャンバスに描く絵、コラージュなどです。よく描くウサギのキャラクター「フルメタルラビット」のファンがどんどん増えています。それが今の僕の大きな励みになっています。

(聞き手=中野裕子)

▽つきみつ・けいすけ 1952年、東京生まれ、富山県育ち。京都産業大学法学部在学中、ロックバンドを結成しボーカル兼ギタリストとして活動。大学卒業後、音楽制作会社「ユニオン出版」に入社。78年に「ビーイング」創業に参加して副社長に就任し、BOØWYやLOUDNESSを手掛けた。84年には「パブリック・イメージ」を創業。ZIGGY、LINDBERGHや氷室京介を手掛けた。2017年、覚醒剤取締法違反で懲役1年6月、執行猶予3年の判決を受け、20年10月に満了。現在は画家として活動している。

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