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杉田玄白が嘆いた梅毒流行 貧困と感染症に無知な遊女の末路

夜の吉原
夜の吉原(C)日刊ゲンダイ

 日本に梅毒が伝わったのは1500年代と言われていますが、その感染力の強さからたちまち日本全土に広がります。それに拍車をかけたのが、江戸時代に全国各地でつくられた遊郭です。

 万葉集で「遊行女婦(うかれめ)」と記述された遊女たちを管理するため、日本で最初に遊郭をつくったのは豊臣秀吉です。大坂城築城とともに整備された城下町と区別すべく、いまの道頓堀に遊郭を設置しました。その後、京都の二条城のそばにも遊郭をつくります。

 さらに徳川家康は、関ヶ原の戦いで焼失した二条城再建の際に、二条の遊郭を六条に移転させました。これが日本の三大遊郭のひとつ「島原」になったと言われています。

 江戸の吉原は敷地2万坪とも言われる広大な敷地を持ち、最盛期には数千人の遊女がいたとされます。1612年、江戸中の遊女を集めて町をつくることを願い出た庄司甚右衛門という人物がつくったと言われています。ちなみに、大坂の「新町」、京都の「島原」、江戸の「吉原」が日本三大遊郭と呼ばれます。

 江戸時代、遊郭に身を沈める女性は借金に苦しむ女性、とのイメージがありますが、必ずしも正しくありません。売春や盗みを働いた罪として人別帖から除かれ、個人に下げ渡される、奴隷となって奴女郎になった者も少なからずいたと言われています。

 いずれにせよ、遊郭で働く女性たちは短命でした。10年程度働くと借金が帳消しになると言われたそうですが、そこまで生きる女性は少なかったようです。

 それも無理からぬことで、「解体新書」で有名な蘭方医・杉田玄白は、自身の患者の7~8割は梅毒であると語っているほど梅毒が日本全国で流行していたのです。「骨から見た日本人」(鈴木隆雄著、講談社学術文庫)によると、江戸市中の人骨調査では江戸の梅毒患者は50%を超えていたと推測しています。ただし、武士が祭られている墓地の骨と庶民のものとは差があり、梅毒罹患者は身分の低い方が多かったようです。

 いずれにせよ、それだけ江戸時代は梅毒という恐ろしい病が流行していたわけで、効き目のある治療法がなかった当時は、患者は治癒を神仏に祈る以外にできることがなく、「笠森が瘡守に通じる」というので、笠森稲荷には多くの瘡毒(そうどく=梅毒)患者が詰めかけたと言われています。

 性感染症の広がりの根底には、生活のために体を売らなければならない「貧困」と、性感染症への「無知」がありました。それは今も変わりません。いまだに日本を経済大国という人がいますが、貧富の差はどんどん広がっていて、いまや日本人の7人に1人が貧困にあり、ひとり親世帯の半分は貧困だと言われています。驚くべきことですが、「貧困はよその国のこと」「自己責任」と目を背けている間に、貧困は日本に広く深く忍び込んでいるのです。

尾上泰彦

尾上泰彦

性感染症専門医療機関「プライベートケアクリニック東京」院長。日大医学部卒。医学博士。日本性感染症学会(功労会員)、(財)性の健康医学財団(代議員)、厚生労働省エイズ対策研究事業「性感染症患者のHIV感染と行動のモニタリングに関する研究」共同研究者、川崎STI研究会代表世話人などを務め、日本の性感染症予防・治療を牽引している。著書も多く、近著に「性感染症 プライベートゾーンの怖い医学」(角川新書)がある。

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