人生に勝つ性教育講座

女性にモテた坂本竜馬の梅毒説は本当か マラリアなど諸説あり

龍馬像と海援隊旗
龍馬像と海援隊旗(C)日刊ゲンダイ

 一介の浪人でありながら、江戸幕府を倒し新しい世の中を開くきっかけを作った快男児――。坂本竜馬という人を一言で評すればこういうことになるでしょうか。

 土佐藩では土佐勤王党として尊王攘夷運動の一翼を担い、脱藩した身でありながら、敵方である幕府軍艦奉行並だった勝海舟に惚れ込み弟子入り。その片腕になったかと思えば、薩摩藩と長崎の豪商をスポンサーにして日本最初の総合商社「亀山社中」を長崎に設立。海運業を生業にしながら当時、犬猿の仲だった薩摩と長州を利によって結びつけ、討幕勢力をまとめ上げました。

 ところがいざ、薩長を中心とした連合軍と幕府が本格的な戦闘に入りそうになると、幕府に「大政奉還」させて内戦を回避させます。まさに八面六臂の活躍であり、英雄です。大変な人間力があり、女性にもよくモテたようです。時代を超えて多くの男女があこがれるのは当然でしょう。

 そんな竜馬にも梅毒説があります。きっかけは、明治時代の社会主義者・幸徳秋水が師である中江兆民のことを書いた伝記「兆民先生」の一文にあります。

「兆民先生嘗て坂本君の状を述べて曰く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ。予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざる予も、彼が純然たる土佐訛りの方言もて、『中江のニイさん煙草を買ふてオーセ』などと命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屢々たりき。彼の眼は細くして其の額は梅毒の為め抜け上り居たりきと」

 竜馬と明治の思想家・中江は同じ土佐の出身です。秋水も同じです。中江が藩命で長崎留学中に、当時亀山社中にいた竜馬と会ったときの様子を、郷里の後輩であり愛弟子である秋水に自慢げに話したのでしょう。それを秋水は覚えていて「兆民先生」に書き記したのに違いありません。

 では、本当に竜馬は梅毒を患っていたのでしょうか?結論を申し上げると私は違うと思います。たしかに、当時の長崎は魑魅魍魎の地でした。朝廷と幕府の間に戦雲が漂い、各藩は軍隊の西洋化を競って銃などの武器や汽船の調達に躍起になっていました。そのため、長崎には英国やフランスなどさまざまな武器商人や外交官などが跋扈し、幕府、朝廷、各藩の役人も入り乱れて情報収集していたのです。ですから、夜ごと丸山遊郭は大変な賑わいだったようです。お金さえあれば女性との遊びは不自由しない港町ですから、当然、性病患者も多かったはずです。外国から「陰門開観」という検査を要求され、遊女の強制検診も行なわれたと言われるほどです。

 しかし、兆民が竜馬を梅毒としている根拠が「額は梅毒の為め抜け上り居たり」というだけではお話になりません。以前にもお話しましたが、梅毒第二期になると脱毛症になることがあります。しかし、もともと毛が薄いといわれる竜馬ですが、写真を見る限りは梅毒を感じさせるものではありません。

 恐らくは藩費で留学していた中江にとって、有名人で羽振りの良い坂本龍馬はヒーローである一方で、脱藩した龍馬に対して複雑な気持ちがあったのではないでしょうか。それが「梅毒」という言葉になったのかもしれません。

 また、「顔中にあばたがあった」ということを梅毒の症状とする向きもありますが、それも根拠としては乏しいと考えます。中には、竜馬が暗殺された際、北辰一刀流免許皆伝の竜馬の反撃が遅れたのは梅毒により神経が冒されていたから、などという説もあるようですが、殺意を抱いた相手から急に襲われれば、反撃などできないのではないでしょうか。

 竜馬の持病については「マラリア」説もありますが、私にはわかりません。いずれにせよ、女性にモテる男性というものはいろいろと憶測されることだけはたしかなようです。子供がいなかった龍馬にその心配はありませんが、家族持ちの身なら邪推されるのはたまったものではありません。気をつけたいものです。

尾上泰彦

尾上泰彦

性感染症専門医療機関「プライベートケアクリニック東京」院長。日大医学部卒。医学博士。日本性感染症学会(功労会員)、(財)性の健康医学財団(代議員)、厚生労働省エイズ対策研究事業「性感染症患者のHIV感染と行動のモニタリングに関する研究」共同研究者、川崎STI研究会代表世話人などを務め、日本の性感染症予防・治療を牽引している。著書も多く、近著に「性感染症 プライベートゾーンの怖い医学」(角川新書)がある。

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