人生に勝つ性教育講座

「梅毒」がシューベルトを歴史的な有名作曲家に変えた?

ウィーン市立公園のフランツ・シューベルト像
ウィーン市立公園のフランツ・シューベルト像

 良い芸術作品にはどこか死の影がある――ある評論家が発した言葉です。言われてみればその通りです。人は芸術作品の中に死の影を嗅ぎ取ります。そして限られた人生だからこそ生きていることの素晴らしさや生命の輝きを知るのでしょう。つまり、芸術家とは一般の人が普段は意識することのない死に常に向かい合い、その対極にある人生の輝きを作品にしているのではないでしょうか。

 その意味で、19世紀を代表するオーストリアの名作曲家・シューベルトもその一人かもしれません。シューベルトは31歳の短い人生の間に1000曲を超える作品を残します。作曲家としての活動期間はせいぜい13年程度ですから、これは驚くべき数です。中でも名作とされる楽曲は最後の5年に集中しています。この5年間にシューベルトは何か死を意識する出来事があったのでしょうか?

 音楽を勉強した方はご存じでしょうが、シューベルトの直接の死因は神経症で、当時、梅毒治療で良く使われた水銀の中毒が引き起こしたと言われています。

 シューベルトは厳格な教育者であり音楽愛好家だった父親と、料理人だった母親の12人目の子供として生まれます。家は裕福ではありませんでしたが、父親の手ほどきで5歳から音楽を始め、才能が開花。宮廷礼拝堂聖歌隊員に抜擢され、帝室寄宿制神学校へ進学します。

 しかし音楽に没頭するあまり、学業の成績が振るわず退学。その後はシューベルトの音楽的才能を惜しむ人の援助に恵まれます。中心になったのは「シューベルティアーデ」のメンバーです。シューベルティアーデとは、シューベルトの仲間たちの部屋で彼の音楽を中心に芸術に関して語り合うサークルのことです。 シューベルトがピアノを弾き、宮廷歌劇場の歌手・フォーグルが歌い、友人たちは合唱に参加したと言われています。メンバーの中にはシューベルトを下宿に居候させたり、五線紙を買い与えたりする人もいました。そのおかげで、シューベルトは音楽を続けていくことができたのです。

 その延長で高貴な人たちとの交流も増えていきます。たとえば、シューベルトは1818年、ハンガリーのツェルス(現在はスロバキア領)に住んでいたエステルハージ伯爵から2人の娘たちの音楽教師として雇われ、その館に滞在したといわれています。その時、伯爵の娘・カロリーヌとシューベルトに恋が芽生えたのですが、身分があまりに違いすぎたため恋が実ることはありませんでした。このことを題材にした映画「未完成交響曲~シューベルトの恋~」をご覧になった人もおられるでしょう。

 シューベルトは叶わぬ恋に身を焦がしつつも、それが成就しない不満を他の女性との情事で処理したといわれています。梅毒に冒されたのはそのせいかもしれません。

 いずれにせよ、シューベルトは25歳の1822年の年末か、1823年の初頭に梅毒の診断を受けたと考えられています。1823年の2月にシューベルトから音楽学者へ宛てた手紙が残されています。

「またしてもこのようなお手紙を差し上げてご迷惑をおかけしなければならない失礼をお許しください。というのも、健康状態が未だ私を家から出すことを許さないのです」

 このときは「未完成」交響曲を作曲中だったと言われています。その後、病状は一進一退を繰り返しながら徐々に悪化していきます。そんな中、シューベルトは「わが祈りの声に耳を傾け給え」という曲や、弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」などを作っていきます。やがて、当時は最先端治療だった水銀の集中的な塗布治療が施されます。その結果、1828年11月19日に亡くなるのです。

 もし、シューベルトが恋を成就して早く結婚していれば、あるいは梅毒を患わなかったでしょうし、長生きできたかもしれません。むろん、それでは私たちが知るシューベルトの名作は生まれなかったかもしれません。ひとりの男の人生としてどちらが幸せだったのでしょうか。

 いずれにせよ、凡人である性感染症専門医の私からすれば、結婚は早くした方が感染リスクを抑えられるのに、と思うのです。

尾上泰彦

尾上泰彦

性感染症専門医療機関「プライベートケアクリニック東京」院長。日大医学部卒。医学博士。日本性感染症学会(功労会員)、(財)性の健康医学財団(代議員)、厚生労働省エイズ対策研究事業「性感染症患者のHIV感染と行動のモニタリングに関する研究」共同研究者、川崎STI研究会代表世話人などを務め、日本の性感染症予防・治療を牽引している。著書も多く、近著に「性感染症 プライベートゾーンの怖い医学」(角川新書)がある。

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