がんと向き合い生きていく

在宅勤務は社会の分断を招き人と人の関係が薄くなるのではないか

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 Aさん(50歳・男性)は初夏のある朝、混んだ電車に乗ったところ、ひどいめまいと嘔気に見舞われ、途中下車しました。すぐに内科を受診し、頭のCT検査を行ったのですが、脳腫瘍などはなく、医師から「めまいの原因は分からない」と言われました。

 しかし、その5日後にも電車で気持ちが悪くなり、今度は嘔吐してしまいました。「がんがあるのではないか……死ぬのではないか」と不安になり、同じ内科で胃内視鏡検査を受けたところ、こちらも問題はなく、精神科を紹介されました。

 精神科では「パニック障害」との診断でした。内服薬が処方され、1カ月ほど会社を休むことを勧められ、診断書を書いてもらいました。Aさんは「もしかしたら、会社の上司から2回ほど理不尽な注意を受けたことが自分の心に響いているのかもしれない」と思ったのですが、そのことは精神科医にも言いませんでした。

 会社に診断書を提出し、Aさんが担当者に「仕事が滞ることが心配だ」と伝えると、在宅でのテレワークができるよう手配してくれました。

 その頃から、新型コロナウイルスの感染者が急激に増え、1カ月後には社員の多くがテレワークになりました。Aさんは自分だけが在宅勤務ではなくなって、とても気が楽になりました。

「お父さんはいいな。ずっと家に居られて……」 小学4年生の息子から、そう言われたのは夏休みの終わり頃のことでした。学校に行きたくない理由を聞いたところ、息子は「同じクラスに何かと僕に意地悪する子がいる。先生に言ったってムダだよ。だって、その子は先生にひいきにされている子だから」と言います。

 Aさんは、自分が在宅勤務なのに息子には「ガマンして学校に行きなさい」と諭すのはなんとなく後ろめたい気がして、その時は黙っていました。

「人間として、こんな在宅の生活でいいのか?」 それ以来、Aさんの心の中の葛藤が毎日続きました。

「人間、朝は気持ちを入れ替えて、シャキッとする必要があるのではないか? 嫌でもガマンして出勤する……それは必要なことなのでは? テレワークなどと聞こえのいいことを言っているが、これでは、人と人とのコミュニケーションがなくなってしまう。ガマンして仕事に行く、人と会う、議論する、冗談を言い合う……それは大切なことではないか。子供だって同じだ。学校に行きたくない、嫌なら行かなくていい……それでいいとは言えないだろう。小学生がウェブ授業でいいわけがない」

■「働き方改革」は人によっては良い取り組みだが…

 たまたまAさんは、ネットで厚労省が「働き方改革」について述べている次のような文章を目にしました。

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 我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。こうした中、投資やイノベーションによる生産性向上とともに、就業機会の拡大や意欲・能力を存分に発揮できる環境をつくることが重要な課題になっています。

「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人一人がより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。

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 さらに、テレワークのメリットとして、オフィスでの勤務に比べ、働く時間や場所を柔軟に活用できる。通勤時間の短縮や、これに伴う心身の負担の軽減等々が書かれていました。また、「孤独や不安を感じた際のご相談先には働く人の『こころの耳、相談窓口』へご相談下さい」とありました。

 Aさんは、この「働き方改革」は人によってはとても良いことだが、一方では、テレワークは人間社会の分断、人と人の関係が薄くなるのではないか、とも考えました。 秋になって、会社では在宅勤務が解かれ、通勤が始まりました。Aさんは長く休んだこともあってか、今は苦痛なく会社に行くことができています。

 息子はガマンしているのかどうかわかりませんが、毎朝、一緒に玄関を出て、にっこり笑って学校へ走っていきます。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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