悲劇を生まないために「延命」「緩和」の意味を知っておく 在宅診療の名医が語る

写真はイメージ
写真はイメージ

 患者の死期が近づくと、医師や家族が「延命」や「緩和」を口にする。しかし、その意味を十分理解しないと、患者はもちろん、その家族にとって看取(みと)りが苦痛になりかねない。1000人の在宅患者を抱え、毎年200人の看取りを行う「しろひげ在宅診療所」(東京・江戸川区)の山中光茂院長に話を聞いた。

 ◇  ◇  ◇

「この中で延命を希望しない人はどれくらいいますか?」

 山中院長が在宅診療に関する講演会でこう質問をすると、多くの人が手を挙げるという。ところが、「じゃあ、ここで暴漢が入ってきてあなたの胸をぐさっと刺しても、私はニコニコ見守らせてもらいますね」と話すと、笑いが起きて「それはまた違うでしょ」との声が必ず上がるという。

「同じ延命でも、“老化”による全身の衰えで寿命が尽きる直前の場合と、“病気”により一部の機能が衰えてしまう場合への対応ではまったく意味が異なります。私の質問と返しに笑いが起きるのは、多くの人がその違いを知っているからです。ところが実際の医療現場では、患者の家族は死んで欲しくないとの強い思いから2つの延命が混同され、悲劇を生むことがある。注意が必要です」

 脳死の状態なのに無理やり人工呼吸器が付けられる、自然な老衰の人に無理やり胃ろうの手術をする、看取りが近い人に食事が食べられないからと点滴をする、などがこれにあたる。

 これらは患者の自然の死を阻害して患者を苦しめるばかりか、長期間の介助を強いられる家族をも苦しめることになる。

 ただ、ここで気をつけたいのは医療は日進月歩で進化しているということ。私たちが知るかつての医療常識と今とでは大きく異なる。延命の意味を想像で解釈するのは危険だ。

 たとえば、最近は「胃ろうは絶対やめて欲しい」という患者や家族が多いという。スパゲティ症候群をイメージするからだ。

 これは点滴や呼吸を補助する人工呼吸器のチューブ、尿を採るバルーンなどの管、脈拍や血圧を調べるためのチューブ類を何本も体に付け、ほとんど意識のないまま長期間にわたってベッドに寝かされている状態を指す。

 生きてはいるが、意思を示すことはない。装置を外さない限り何年にもわたって呼吸し続ける。

 こうした延命方法をイメージするのか、胃ろうというだけで、はなから否定する人も少なくない。

「しかし、高齢者の中には脳はしっかりしているのに神経の病気などで体が動かせない、意思表示ができないという患者が一定数います。こういう人は胃ろうをつくることで元気になる。しかも、胃ろうで体力が回復すると自力で食べられるようになったり、介助が楽になる場合もある。老衰の患者でも神経疾患の患者でも区別せず、『食べられないから』という理由だけで胃ろうをつくっていた“過去の医療”へのトラウマが、まだ社会に残っているように思います」

■「緩和」は医療技術の集大成

 人は基本的には長生きしたい。それは、どの医療現場においても前提にはなっていて、在宅診療でも決して例外ではない。

「抗がん剤をやめたら、生きることをやめてしまうような気がして」

 山中院長はそんな言葉をよく聞く。

「命は必ず終わる。それは人類史上、変わりのない真実です。誰もがいつかは命を諦めなくてはいけないのです。それでも、“今”がすべての人にとって、少しでも長生きしたいのは生物としての生存本能として自然なものです。それにもかかわらず、多くの人が今“延命を望まない”のはなぜか。それは、『延命』という言葉の意味が、医師、患者とその家族との間であまりに異なっているからです。私たちが気を付けなくてはいけないのは、医者にとっても患者やその家族にとっても『延命措置』というものが何を示すのかをしっかりと考えて、共有をしなくてはいけないのです。病気の状態や人の価値観によっても大きく変わる問題なのです」

「緩和」もまた医師と患者と家族がその意味を共有すべき言葉だ。

「在宅診療の現場では、末期がんの患者さんに対して『緩和医療』をしっかりと行います。それはひとつの医療技術の集大成であり、その高度の医療を患者のために精いっぱい提供しているのです。ところが、患者さんやその家族の方は痛みや苦しみを『緩和』する治療を、なぜか延命を諦めること、治す努力をやめることだと考えてしまう。在宅で緩和に携わる医師のほぼすべてが緩和をしながらも可能な限り『延命』につなげたいと思っています。抗がん剤や手術が延命につながることもあれば、それが単に患者を苦しめて命を縮めてしまうことも少なくありません。積極的治療をしないという選択が『延命』につながることもあることをわかって欲しい」

 誰もが「限られた命」の中で生きる。患者はもちろん、医師も家族もそれをどのようにステキに「延命」できるのか、妥協せずに考えることが大切なのである。

関連記事