医療だけでは幸せになれない

コロナとマスク着用 「判断する」と「考え続ける」は相反する部分がある

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写真はイメージ(C)日刊ゲンダイ

 国は3月13日以降、「個人の主体的な選択を尊重し、着用は個人の判断に委ねる」という判断を発表した。「自粛」と同じ流れである。ただその半面、<着用が効果的な場面>として、以下の状況ではマスク着用を推奨するという内容である。今回も引き続きこのマスク着用に関する問題を考えてみたい。

●医療機関を受診する時

●高齢者など重症化リスクの高い方が多く入院・生活する医療機関や高齢者施設などへ訪問する時

●通勤ラッシュ時など、混雑した電車やバス(*)に乗車する時(当面の取扱)

(*)概ね全員の着席が可能であるもの(新幹線、通勤ライナー、高速バス、貸切バス等)を除く

●新型コロナウイルス感染症の流行期に重症化リスクの高い方が混雑した場所に行く時

 この決定に基づき、個人個人がどのように行動するか、ここ数カ月の変化に注目したい。ただ今日の話題は、この判断そのものについてではない。この判断が適切なものであったかどうか、今の時点ではわからないし、この先もわからないままかもしれない。

 この判断について、正しい/正しくないという視点ではなく、その判断を棚上げして、どう考え続けるかということである。

「この判断は間違っている。マスク着用を個人の判断に委ねるなど時期尚早だ」という立場を明確にして反論しようが、「この判断は妥当なものだ。個人の判断こそが重要だ」という立場で擁護しようが、その態度を明確にすればするほど、自分の判断に都合のいい情報ばかりを集め、自分自身の判断をより強固にするようになって、思考が停止する。

 判断する、決断することと、考え続けることには相反する部分がある。いったん考えを止めなければ、判断ができないし、逆に考え続けるためには、判断を先送りする必要があるからだ。で、判断することと、考え続けることのどちらが重要かと問われれば、私自身を含め、一市民にとっては、考え続けることの方が重要ではないかというわけである。

 そういう意味で、「個人の判断で」という文言は、それぞれに考えることを促す、良い対応だとひとまず言えるかもしれない。このあいまいな日本政府の判断に対して、ロックダウンやマスクの義務化をしなくても感染対策が実現された成熟した社会だからこそ、という考えもある。

 しかし、これまで現実に起こったことは何か悲惨な気がする。

 明確な判断を示すことができない政府と、明確な判断を避ける政府の意向を忖度して、義務でもない推奨をあたかも義務であるかのように受け取ってしまう国民、というのが実際のところではないか。政府の意見を受けて、国民一人一人が考えて判断したというのとは違う感じがする。ただそれを「同調圧力」という一言で済ますのもどうかと思う。

 こうした状況で、マスクを外せる場所では外そうという方向性をにじませつつ、個人の判断に委ねるという政府のあいまいなおすすめが、この先の個人個人の行動にどんな変化をもたらすのか、興味深いところである。少なくとも、マスクの着用を義務のように捉えたこれまでと異なり、マスクを外すことを義務だとは考えない人が大部分だろう。

 3月13日以降、急激に屋外でのマスク着用者が減るとは考えにくい。自分自身がそう考える根拠は何かと言われると、はっきりしないところもあるが、顔を見られたくないという気持ちはなんとなくわかる。

 電車内でマスクをつけない人を見かけたときに、「そんなに自分の顔を見せたいか、少しは遠慮したほうがいい」、そんな気持ちがないわけではない。これもまた厄介な気持ちである。イスラム教の女性がかぶるヒジャブを連想する。自分にもそうした何かを抑圧したいような気持ちがある。

 今しばらく考え続けたい。日々のマスク着用は適当にする。行動は適当に、判断を先延ばしにして、考えることに集中したい。

名郷直樹

名郷直樹

「武蔵国分寺公園クリニック」名誉院長、自治医大卒。東大薬学部非常勤講師、臨床研究適正評価教育機構理事。著書に「健康第一は間違っている」(筑摩選書)、「いずれくる死にそなえない」(生活の医療社)ほか多数。

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