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UCLAの教授だった同級生の訃報…元気で会えたら聞いてみたかった

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 大学の同級生S君の訃報が届きました。長く住んでいるアメリカで亡くなったのです。

 10年ほど前になりますが、大学卒業後40年ぶりに会った彼は、ニコニコ笑顔で、胸を張っていました。学生時代は毅然として、堂々としていたS君とは思えませんでした。かつて感じられたその気迫は、彼のその後のアメリカでの経歴が物語っているように私は思っています。当時、石原慎太郎氏が書かれた「『NO』と言える日本」について、S君は「その通りだ。日本人は言葉が分からなくてニコニコしているだけではいけないのだ」といったようなことを言っていたと記憶しています。

 彼が、われわれの病院を訪れた時の、研修医に向けた講演の演題は「医師としての鍛えられ方-アメリカで生き延びる終わりのない試練-」でした。

 大学卒業の頃、私たち同級生の多くは大学医局制度反対とか、そんなことで騒いでいたのですが、彼の進路はまったく違っていました。卒業してすぐに米軍病院で研修を受け、アメリカに渡り、そのまま某病院で内科レジデント、そして某大学病院でアシスタントレジデント、チーフレジデント、内分泌フェローシップの後、内科スタッフとなり、さらに、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)助教授、准教授、そして1993年には教授となりました。日本人の彼が、米国の病院でアメリカ人に負けじと頑張り、その成果が実った結果であると思いました。

■研修医の育成を協力して模索

 私は彼と連絡を取り合って、日本の研修医がアメリカの医療に触れる機会を模索しました。そして東京都庁の協力を得て、数年間ではあったもののUCLAへわれわれの病院から数人の研修医を送り、そしてUCLAからはいろいろな分野の専門医師が日本に講演に来られました。S君から紹介され、初めて日本を訪れる米国医師を迎えるため、研修医が成田空港に迎えに出向いたり(多くは土日に着きました)、一度はわが家に2人の医師に泊まってもらったこともありました。

 講演後の夜は、歓迎パーティーを病院近くの居酒屋で開きました。研修医たちは米国医師を囲んで遅くまで歓談していました。米国医師は、講演後に京都などを旅行して、帰国する方もいらっしゃったようです。

 日本の研修医が、日本の病院の各科を回るだけではなく、たとえ短期間でもアメリカに渡り、UCLAの診療などの見学もできたのです。S君と私は、研修医が若い時代にそのような経験をすることで、より視野の広い医師に育つことを確信していました。

 当時、UCLAの病院を見学して卒業した研修医たちは、現在は某がんセンターなどで中堅医師として、あるいは指導医師として活躍しています。

 数年前、S君から届いたメールによると、心臓の大きな手術を受けた後、腎不全となったようでした。しかし、彼は負けませんでした。毎夜、就寝中に腹膜灌流透析を行い、昼は診療と研究をしていたのです。そして、その後も何回も日本に来て、腹膜灌流透析を行いながらも各地を講演して回りました。その話を聞いて、私にはとてもできることではないと思いました。

 2019年、彼が東北地方の故郷で行った講演は「認知症の確実な予防法」「がんの発生とその予防」という演題でした。その時の彼の肩書は「カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医学部終身名誉教授」とありました。

 この3年ほどは新型コロナの流行もあって、S君からの連絡が途絶えていました。医師になってからのほとんどをアメリカで活躍したS君、彼の遺骨は郷里のお墓に納まるといいます。ご冥福を祈るばかりです。

 ニコニコして、姿勢よく、毅然としたS君の姿が目に浮かびます。元気でもう一度会えたら、私は彼に聞いてみたかったことがあります。エンゼルスの大谷翔平選手の活躍をどう見ていたのだろうか? やはり、天才と言ったであろうか?

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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