上皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

心臓手術でも脳を冷やして温度を下げてから実施するケースがある

天野篤氏
天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

「脳の温度」を意識することは健康維持に大いに役立つ可能性があると前回お話ししました。通常、われわれが日常生活の中で経験する脳の温度は、35~39度台くらいでしょう。その範囲内で、温度が高くなったら冷やし、低くなったら温めて“適温”を維持することを心がければ、体内循環が適切にコントロールされ、結果的に心臓を守ることにつながります。

 また、夏にそれを実践すれば熱中症、冬であればヒートショックを防げる可能性が高くなります。女性であれば、腸の蠕動運動が良好になって慢性的な便秘の解消につながることも考えられます。脳の温度は、脳にある自律神経中枢の働きに関係するため、全身の健康管理につながるのです。

 日常生活とは状況が大きく違いますが、心臓手術でも脳の温度を意識するケースは少なくありません。そのひとつが「超低体温循環停止法」です。血液を体外循環させる人工心肺装置を使って冷却した血液を体内に送り込み、患者さんの体温を20度前後まで低下させます。さらに、頭をアイスパックなどで冷やして脳の温度を18~20度くらいに下げ、人工心肺による血液の循環を一時的に停止した状態で手術を行います。

 超低体温循環停止法は、首を通って心臓から頭部へ血液を送る頚動脈が大動脈とつながっている部分にあたる弓部大動脈の手術を行う場合に選択されるケースがほとんどです。心臓が停止して全身の血液循環が止まっているので、たとえば弓部大動脈の大動脈解離や動脈瘤などで人工血管に置換する際でも、大量出血のリスクが低くなります。

 また、弓部大動脈に血栓があるようなケースでは、外部から大動脈を処置すると血栓を脳の血管に飛ばしてしまう危険もあります。循環を完全に停止してから大動脈の処置を行えば、そうしたリスクを回避することができます。さらに、脳の温度や体温を下げると臓器の代謝も低下するので、脳を含めた臓器、とりわけ神経系に与えるダメージも抑えられるのです。

■出血予防と臓器保護ができる

 ただ、脳への血液循環がなくなると、脳の酸素飽和度はみるみる下がっていきます。一般的に、脳も含めた人間の臓器は、30度以下の低体温下であれば、血液の循環を停止してから40分程度なら深刻なダメージは受けないとされていますが、術中に計測している静脈の酸素飽和度が、動脈側の半分以下まで下がった時点で危険水域と判断し、頚動脈からカテーテルを挿入して脳に血液を送り脳細胞を保護する「選択的(順行性/逆行性)脳灌流法」を組み合わせます。

 かつて、3~4センチ大の巨大脳動脈瘤があった40代の患者さんの脳外科手術の際、われわれ心臓血管外科医が超低体温循環停止法を併用したケースがありました。患者さんの脳や体温を20度まで下げてから、血液の循環を停止した状態で脳動脈瘤の手術を行ったのです。もちろん、動脈瘤が破裂して大量出血することもなく、無事に手術は成功しました。

 ただ近年は、超低体温循環停止法よりも体温を高く保つ「中等度低体温循環停止法」や「軽度低体温循環停止法」を選ぶケースが増えています。脳や体温をあまり冷やしすぎると、冷却にも元の温度に戻す復温にも時間がかかるため、手術時間のロスが大幅に増えてしまうのです。

 以前、糖尿病の持病がある60代男性の手術でも体温を28度程度まで下げてから循環を停止する中等度低体温循環停止法で、弓部大動脈瘤と冠動脈バイパス手術を同時に行ったことがあります。

 その患者さんは動脈瘤の手術に加えて3カ所の冠動脈バイパス手術が必要なうえ、動脈瘤のある位置が深かったため、手術が4時間以上に及ぶことが予想されました。先ほどお話ししたように、長時間にわたって循環を停止していると脳細胞に大きなダメージを与えてしまいます。そこで、首の頚動脈にカテーテルで人工心肺装置をつないで血液を送って脳の循環を維持する選択的脳灌流法を併用しました。

 脳を保護しつつ体温を下げ、心臓の動きを止めてから動脈瘤ができている血管を切除して人工血管に交換し、3カ所のバイパス手術も実施したのです。その結果、術後の心機能は良好で、とくに後遺症もなく、自分でも完成度の高い手術ができたという手応えがありました。

 もちろん、日常と手術時は大きく環境が異なりますが、脳=自律神経中枢の温度が全身に影響を与えるのはどちらも同様な生体反応といえます。脳に近い鼓膜温度の測定が可能な体温計は手軽に買えるので、ふらつきやボーッとした感じを覚えるときに測定して脳の温度を意識したり、季節の変化に応じて測定してみることが健康維持の新たなバロメーターになると感じています。

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天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

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