がんと向き合い生きていく

手紙を読んで死の恐怖を乗り越える術に一歩近づいた気がした

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 短い命を告げられた患者が、宗教なしでどうやって奈落から這い上がるのか? そのひとつの術として、女性作家のKさん(当時73歳)からいただいた手紙を紹介します。

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 私自身、深刻な病気を持ちながら死ぬまで生きる杖が欲しくて、すでにやめてしまった「書くこと」を再開したものですから、よくわかります。

 死が差し迫った現実になった人にとって、何のために生きるのか、の「何」は、哲学的な命題ではなく、具体的な日常的な目標なのだと思います。

 つまり、細々としたやらねばならないことに囲まれた日常を維持することで、死という非日常を乗り越える。あるいはやり過ごす。奈落に日常を持ち込むことで、生と死を一続きの人間の営みととらえ、孤立し切断される死ではない、人の生活の中にある自然な死を実感して気持ちを立て直す。這い上がる。

 よく山で死ねば本望、舞台で死ねば本望などの謂いがありますが、それもそういうことだと思います。明日はこれをしよう、ここまで行こうなどと希望しながら死んでいくのが一番自然な死だと私は思います。

 ……要は、その力を引き出してやることだと思います。そして、その力はその人が生きてきた日常の中にこそあるのだと思うのです。

 私は、先生の著書(がんを生きる)で、奈落に落ち込んだ主婦が、自分の死後ひとり残される夫が困らないようにアレコレ教えてやらなければと考えて、こうしてはいられないとばかり元気を取り戻すというお話がとても好きです。いい例だと思うのです。

 私も深刻な病気を得た当初、今まで悩み相談をしたりされたりしていた人たちが「今のあなたはそれどころではないでしょうから」と、急に口をつぐんでしまったりするのに寂しい思いをしたことがあります。一生懸命人の悩み相談に応じている方が、自分なりにできることをしている日常を実感できて、むしろ救われるのです。

 ……一般的にアタマで考えることに慣れた人は、考える力に比べて感ずる力や信ずる力が弱いでしょうから、直感的に何かを悟ることは出来にくいと思います。攻撃は最大の防御なり、といいますから、死から目を背けるよりも正面から死を考えるのもいいのかも知れません。

 でも、死に逝く人が奈落の底でひとり死を考え詰めるというのはどうでしょうか。

 私は先生のご自慢の緩和ケアチームに守られて、看護師さんの恋愛相談や子育ての悩みの相談に口を挟んだり、私の話を聞いてもらったりしながら過ごすのが理想なのですが……。

 今の私の考えていることと、余命が迫って何をしても間に合わない、取り返しがつかないという時が来た時の私の気持ちは全く別だと思いますし、その時どんな混乱に身をおくことになるかは見当もつきません。

 その時のために、宗教とは関係なく、「神は自分の中に在る。その内なる神をみつけ、つながることで救われる」という言葉を頼りにしているのですが、その方法は見つかっていません。先生と同じです。著者の説く通り、アタマでなく常にそう念じて五感をとぎ澄ますことが肝要なのでしょう。

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 Kさんのお手紙を読んで、私は精神科医の岩井寛氏を思い出しました。彼はがんが進行し、下半身麻痺となり、耳が聞こえなくなり、目が見えなくなりました。しかし、そんな状態でも口述筆記を行っています。

「自分の死後、おれはこんな仕事をしたという確証を残したいから本を書いているのでもない。……それは『最期まで人間として意味を求めながら生きたい』からである」

 岩井氏は日本で生まれた精神療法「森田療法」の中で、「奈落を排除するのではなく、あるがまま、奈落に日常を持ち込む」と言っています。

 また一歩、死の恐怖を乗り越える術に近づいた気がしました。

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佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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