がんと向き合い生きていく

がんが発覚して診療できなくなった医師が見つけたもう一つの人生

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 外科医のRさん(65歳・男性)は25歳で医師になり、某総合病院の消化器外科に15年間勤務しました。特に胃がんの手術が上手と評判でしたが、40歳の時に病院を辞めて外科医院を開業しました。

 Rさんの楽しみは、麻雀と夜にウイスキーを飲みながら小説を読むことでした。20歳から喫煙を始め、55歳まで1日20本、休むことなく吸い続けていました。Rさんにとって、手術や診察の後、そして麻雀の時はたばこが欠かせませんでした。

 そんなRさんも55歳でたばこをやめました。女性の患者さんから「先生はたばこ臭い。患者の健康も考えてください。吸っている人の周りの人にも害があるって聞いています」と言われたのがきっかけでした。

 この時から、Rさんは雀荘に行かなくなりました。夜はひとりでスコッチを飲みながら、テレビでプロ野球観戦か、最新の医学論文や推理小説を読む日々となりました。

 Rさんが61歳の秋、風邪をひいていないのに声がかすれました。医師会の会合でなじみの耳鼻科医に診てもらったところ、「声帯の近くに腫瘤があります。B大学病院を紹介します」と言われました。B大学病院の耳鼻科では、「組織を採って調べますが、がんであることは間違いないと思います」と告げられ、それから、がんとの闘いが始まったのです。

 手術の場合、声帯を含めて喉頭を全摘出しなければならなかったため、Rさんは放射線と抗がん剤治療を選びました。40日間の放射線治療では、開始して10日を過ぎた頃から喉の痛みが出始め、それが2カ月間ほど続きました。幸い治療は完遂できたものの声はかすれたままで、体重は10キロ減りました。それでも、自身の診療所は3カ月間休診した後に再開できました。

 しかし、その後は2カ月おきくらいに微熱と咳が出て、誤嚥性肺炎を起こしました。抗生剤を飲んで、いずれも3~4日で熱は下がりましたが、診療所はたびたび休診しなければなりませんでした。

■妻に叱咤され手術を受けた

 さらに1年たったところで右頚部の皮下に腫瘤が出てきました。B大学病院耳鼻科で検査した結果、喉頭部の放射線治療域から外れたところにがんが再発していました。

 担当医から、今度は「喉頭全摘と頚部リンパ節郭清術」を強く勧められました。「気管切開で声は出なくなるが、食道発声の訓練で話せるようになる。また、電気式人工喉頭(EL)というのがあって、舌や唇を動かすことで話ができる」と説明されました。

 Rさんは、今度はとても悲観的になりました。

「診療もできない。生きている意味がない。この先を考えるとつらい。死にたい」

 奥さんにそう打ち明けたそうです。

「何を言ってるのよ! 声が出ないくらいで……男でしょう?」

 奥さんに叱咤され、Rさんは喉頭全摘の手術を受けました。呼吸は、鼻と口が関係なくなり、気管切開した穴で行われます。咳をした時は、その穴から痰が出てきますが、普段は首にガーゼを巻いて穴を隠してあります。食事は口からできて、誤嚥することはなくなりました。

 それから3年がたち、幸いがんの再発はありません。初めはボードに字を書いて会話をしていましたが、今は左手でELを首に当てて話します。

 そんなRさんからお手紙をいただき、私は3月にご自宅を訪ねました。お会いするのは20年ぶりで、痩せておられましたが元気そうです。玄関にはたくさんの植木鉢が並んでいました。外科医院は閉じて、今は娘さんが嫁いだ先の園芸店に勤めているそうです。

 Rさんは「私にはもうひとつの、別の人生がありました。山野草のちっちゃな花が咲くと感動します。植物は人間よりも偉い」と言って、にっこりほほ笑まれました。

 RさんのELの声とやさしい目に会って、思わずRさんの右手を握ったら、痛くなるほど強く握り返してきました。

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佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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