がんと向き合い生きていく

「コロナで死ぬのは嫌」気になる患者と初めて言葉を交わした

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 56歳で独身のGさん(男性)は、50歳のときに公務員を辞めて山里の古民家に移住し、畑仕事を始めました。山を眺めながら土をいじっているのが幸せで、時間を忘れて過ごしました。

 ジャガイモやサツマイモは苗芋を植えてそのまま放っておいても、秋に掘ってみると芋の塊が続々と出てくるのが面白く不思議でした。そして、とてもおいしいのです。

 ほかにも、ネギ、トマト、エンドウなど、畑の恵みに感謝して暮らしていました。

 3年前の春、ときどき腹痛があるので近くの病院でCT検査を受けたところ、腹の中に瘤が何個も見つかり、都内のN病院を紹介されました。外科に入院して一部を手術した結果、「ろ胞性悪性リンパ腫」と診断されました。

 その後、腫瘍内科に移り、薬での治療が効いて瘤は小さくなりました。いまは腫瘍内科外来に通院中です。

 この2年間、Gさんはずっと2カ月に1回のペースで通院しています。病院では腫瘍内科の診察室前で順番が来るのを待つのですが、同じように待つ患者がいつも数人います。まったく会わなくなった患者、会わないなと思っていたら再び顔を合わせる患者もいます。

 その中でも、Gさんが気になった人がいました。たぶんGさんと同じ年代で、身長170センチくらい、眉毛が太く、くちびるが厚いブスッとした男性です。時に、そのギョロッとした目とGさんの目が合ってしまうのです。

 同じ腫瘍内科に通っているのですから、がん患者に違いありません。きっと向こうもGさんの顔を覚えていると思いますが、一度も声をかけたことも、かけられたこともありません。「Jさん」と呼ばれて診察室に入っていったので、Jという名前なのでしょう。特に何があってというわけではないのですが、なぜか、このJさんがGさんの心に留まっていました。

 もちろん、そんな外来での出来事は、自宅に帰ればすっかり忘れてしまいます。山と庭、畑を見れば、まったく違う自然の世界に浸れるのです。

■がん患者はハイリスク

 前回、外来に訪れた頃から新型コロナウイルスが流行していて、テレビのニュースではこんな田舎村の近くでも陽性者が数人出たと報じられていました。コロナで亡くなった人の話を聞くと、Gさんは「がん患者は感染のハイリスク、がんで死ぬか、コロナで死ぬか?人間たかだか100年。考えたって仕方ないかも」と思ったり、「死んだら甥っ子にこの家と畑を継がせるか、村にあげてしまうか」などと漠然と考えたりしていました。

 診察の予約日になって、GさんはまたN病院に出かけました。マスクを着けて電車に乗り込むと、乗客は皆マスクをしています。車内では話し声ひとつ聞こえず、次の駅名を告げる車内放送だけが響いていました。

 病院に着くと、入り口に消毒用アルコールが置いてあったのでGさんは手にとってすり込みました。患者も病院の職員も皆マスクをしています。

 いつもと同じように、採血してから診察室前で順番を待ちます。マスクをしているためか、やはり話し声はありません。聞こえるのは、時折、次の患者の名前を呼ぶ声だけです。

 Gさんは他の患者とは離れて長椅子に座ったのですが、急に隣に座ってきた患者が「コロナ嫌ですなあ。気をつけましょう」と声をかけてきました。見ると、マスクをしたJさんでした。初めて声をかけられたのです。

 Gさんはとっさに「お宅こそ、どうも」と返事をしました。Jさんは渋い顔で「私は食道がんで治療しています。コロナで死ぬのは嫌です。ではまた会いましょう」と言って出て行かれました。 この2年間ずっと毎回のように会っていても、お互いまったく口を開くことはなかったのに、コロナが言葉を交わすきっかけとなったのです。

 もしコロナの流行がなければ、Jさんとその後もずっと言葉を交わすことはなかっただろう。「災いが人の団結を生む」ってこともあるのかもしれないと、Gさんは思いました。

■本コラム書籍「がんと向き合い生きていく」(セブン&アイ出版)好評発売中

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

関連記事