在宅緩和医療の第一人者が考える「理想の最期」

欠かせない「がん告知」在宅看取りで実感した人間らしい最期

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写真はイメージ(C)日刊ゲンダイ

 1987年、蘆野さんは自宅で治療を受けられる「在宅ホスピスケア」という未開の分野に取り組み始める。当時としては全くの新しい概念で、全国5つの労災病院で試験的にスタートした在宅医療プロジェクトだった。まずは在宅で患者を診て、臨終期になってから病院に入院させ、看取(みと)りは病院で行う仕組みとしていた。

「実際にプロジェクトが始まると、それほどうまくはいきませんでした。病状が急激に悪化してそのまま自宅で亡くなるケースや、『最期は自宅で迎えたい』『もう病院には戻りたくない』といった患者や家族が後を絶たなかったのです。看取りを在宅で行うことは全く考えていませんでした」

 患者が「死」を迎える時には、医療者が必ずそばにいなければならない。それが医師の最後の役割であると思っていた。だから、在宅看取りは“あってはならないこと”だった。

「患者が人生の最終段階に差し掛かっているとしても、医療者には“何とかして死を避けたい”という心理が働きます。私も当時はそう思っていたし、患者さんが亡くなると、たとえそれが寿命であったとしても、申し訳ないという気持ちになっていました」

 ところが、蘆野さんの気持ちに反して、在宅で亡くなった患者の家族は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも満足そうな笑顔を見せた。

「患者さんの様子も、病院で亡くなるのとは違ってとても穏やかでした。入院患者には積極的な延命処置をしていたので、患者には相当な負担がかかります。点滴の青あざが細い腕にあったり、関節を動かしにくくなる拘縮や床ずれがあったりしたんです」

 人間らしく人生の幕を閉じることができるのは在宅だと実感したという。そして91年には「進行したがん患者は自宅で看取る」という方針転換を行った。

「ここで大切になってくるのが“告知”です。告知がなければ、患者は『いつ治療をしてくれるんだ』という強い不安に駆られながら、闘病しなければならないのです」

 患者には“知る権利”と“自己決定権”がある。今では当たり前の告知も、当時はまだ、医師の裁量によるところが大きかった。

「患者や家族と信頼関係を築いた上で、病名や病状、そして残された時間について説明をしました。すると、いったんは失望する患者も、徐々に考えが変わるのです。残された時間を有意義に過ごすようになることが分かりました」

 1年後には全ての患者にがん告知をするようになった。この後、進行したがん患者の4人に1人は、在宅治療に移行。翌93年には40%にまで増えている。

 ただし、在宅患者の増加は課題も浮き彫りにした。

「在宅医療は人の尊厳が守られるけど、面倒を見る家族の負担は大きかった。家族の人数、年齢、経済力といった家族の“介護力”にも配慮しなければならなかったのです」

 蘆野さんは何かしらのサポートが必要だと考え始めた。

(取材・文=稲川美穂子)

蘆野吉和

蘆野吉和

1978年、東北大学医学部卒。80年代から在宅緩和医療に取り組む。十和田市立中央病院院長・事業管理者、青森県立中央病院医療管理監、社会医療法人北斗地域包括ケア推進センター長、鶴岡市立荘内病院参与などを歴任し現職。

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