在宅に移行する患者が増えるにつれ、家族の負担が大きいことも分かってきた。そこで1994年には、病院や医師会、社会福祉協議会、保健所、市役所などが連携し、地域で患者を支える仕組みづくりに取り掛かる。現在の地域包括ケアシステムに近い格好だ。
「外科医として、病院では手術や抗がん剤治療、放射線治療をする。一方で緩和ケア医として、訪問診療を続けていました。在宅は基本ひとりで診療していましたが、しばらくすると院長が訪問看護師をつけてくれることになりました。ここでまたひとつ、転換期が訪れたのです」
訪問看護師の役割の大きさに気付いたのだ。
「訪問看護師には、私が培った症状緩和のノウハウを惜しみなく伝えました。すると日中は看護師だけで患者の対応ができるようになったのです。緩和ケアは看護師が主体となった方が患者にとっても良い。医師の役割は、その都度、患者や家族にしっかり病状を説明することだと知りました」
他の職種との協働で、患者により質の高いケアを提供できることが分かってきた。
「1996年には院内に訪問看護室を開設し、訪問診療の体制をさらに強化していきました。この頃には、半数のがん患者が在宅医療を希望するようになりました。その3分の1を自宅で看取(みと)るようになったのです」
2005年には、在宅医療や緩和ケアの普及にあたるため、青森県の十和田市立中央病院に院長として着任した。
「古い体質の土地柄で、病院と医師会は商売敵のような関係でした。患者は病院で抱え込むため、地域で看取るという文化もほとんどありませんでした。そこで、まずは病院でも家族看取りができるようにしました。病院でも自宅でも、看取るのは家族です。家族に看取りの仕方を指導し、臨終の際は医師や看護師が同席せず、死亡確認まで少し時間を空けるようにしました。家族だけの時間を持てるようにしたのです。ご遺体も、医療者と家族が一緒にきれいにするようにしました」
病院ではやったことのない看取り方だ。職員は冷たい視線を浴びせたという。
「普通はしませんから、医療者としてストレスを感じていたと思います。ただ、思った以上に早く受け入れられていきましたね」
在宅でも同様の看取り方をした。反応は良好だった。
「もともと在宅ホスピスはがん患者だけが対象でした。でも、自宅で最期を迎えたいという希望者が増えたので、新しい試みとして、非がん患者への緩和ケアの取り組みも始めることになりました」
この頃、国も本格的に地域包括ケアシステムを推進し始めた。
「看取りを地域に戻す“基盤”は出来上がったので、私はバトンを渡すことにしました」
十和田市におけるがん在宅死亡率は年間20%にまで増えていた。
(取材・文=稲川美穂子)
在宅緩和医療の第一人者が考える「理想の最期」