独白 愉快な“病人”たち

下半身の感覚がなくなって…ヤマザキモータースさんADEMを語る

ヤマザキモータースさん
ヤマザキモータースさん(C)日刊ゲンダイ
ヤマザキモータースさん(芸人・51歳)=急性散在性脳脊髄炎

 15年前、「急性散在性脳脊髄炎」、通称「ADEM」という病気を発症しまして、一時は胸から下の体の感覚が麻痺して、まったく動かせなくなりました。リハビリで歩けるようになったのですが、いまだに走ることはできませんし、なんといっても排尿障害で自力でオシッコを出し切れないという後遺症が残りました。

 夜は今でも毎日、自分でカテーテルという管を挿して導尿しています。初めの頃は痛くて怖くて大変でしたが、もう麻酔ゼリーなど使わなくても挿せるようになりましたよ。慣れってすごいですよね(笑い)。

 始まりは風邪でした。めったに風邪などひかない健康体だったのですが、地方営業に行ったときになんとなく体調が悪くなって……。東京に戻ってすぐに病院に行けばよかったのに、翌日から3日連続でパチンコ店での営業がありまして、店内をしゃべりながら練り歩きました。

 で、4日目のオフ日に妙に背中に痛みを感じたものの、「風邪で体の節々が痛いってこういうことか」と思いながら、夜には芸人仲間と飲みに行ったんです。でもその時、トイレに行ってもオシッコが出なくて、ちょっとおかしいなと思い始めました。

 翌朝には熱が38度もありました。それでも、朝から例のパチンコ店の営業があったので無理やり行って仕事をやり切り、フラフラになって当時の彼女、今の嫁さんのところに転がり込みました。 その夜、彼女の家の近くの救急病院へ行ってオシッコを抜いてもらったのですが、肛門に力が入るかどうかを検査したところ、力が入らないことが判明して……。そこから、本格的に「これはおかしいぞ」となって脊髄の検査になりました。

 脊髄液を採るための麻酔注射は研修医が担当で、それがへたくそで五寸釘を打たれるようなものすごい痛みを味わいました。そのうちベテランらしき医師が来て、「どこに打ってんだよ」という声が聞こえたときは朦朧とした意識の中でも恐怖を感じましたね。

 そのまま朝方になって、「急性散在性脳脊髄炎」と分かり緊急入院になりました。

 気づいたら胸から下の感覚がなくなっていて、「何万人に1人の病気であまり症例がない」と告げられました。ただ、「変わった病気だけど徐々に治っていきます」と医師が言うので、「年内には何とかなるだろう」と楽観的でした。それが2005年10月のことです。

 下半身は動かない。オシッコは出ない。当初は便も自力で出せなくて看護師さんにかき出してもらっていたので、「オレ、何やっとんねん」と情けなくなりました。

 結局、その病院に2カ月、その後はリハビリ病院に移って2カ月、計4カ月の入院生活を送りました。治療は最初の1カ月間に炎症を抑えるステロイドを打っただけ。あとは自力で良くなるしかない病気のようです。

 僕の場合、この病気になったのはサイトカインストーム(免疫の暴走)によって正常な細胞を攻撃してしまう自己免疫疾患から。僕の免疫は風邪のウイルスと闘うはずだったのに、なぜか脊髄を攻撃してしまい、脊髄に炎症を起こしてしまったようなのです。後から聞いた話では、「脳にも少し炎症があるので、もしかすると重篤な状態になるかもしれない」と家族は言われたそうです。

■着ていたTシャツに笑いが漏れた

 そんな少々重たい空気が漂う中で、いち早くお見舞いに来てくれた先輩芸人たちが、僕を見るなりクスクス笑い出したことがありました。

「何ですか?」と聞くと、僕が着ていたTシャツを指さすので、ふと見たら胸にでっかく「THE END」の文字。狙ったわけじゃないですけど、洒落がきいていました(笑い)。

 リハビリで感覚が徐々に戻ってきた間は楽しかったですが、2~3年もすると停滞して、そこから先はずっと横ばい。幸運にも、脳の炎症による障害は出なかったものの神経の通りが悪いので、ジッとしていると筋肉が硬直しやすいんですね。ただ、初めはベッドで起き上がることすらできなかったのですから、こうして杖なしで歩けるようになっただけでもありがたいことです。

 病気になって感じたのは、日本の医療制度の素晴らしさです。僕、民間の医療保険には一つも入ってなかったので、売れっ子芸人に借金して月60万円ほどの入院費を払っていたんです。

 けど、国民健康保険には「高額療養費制度」というものがあるのを人生で初めて知りまして、申請したら自己負担額は月数万円で済みました。長いこと国保を納めてきて心底よかったと思いましたね。

 つくづく自分一人で生きているんじゃないと思いましたし、社会というコミュニティーの中で人とつながって生きていくことが大事なんだと思いました。

 仕事は表舞台から裏方になりましたけど、小さい頃の夢が「学校の先生」だったので、今、お笑い学校の講師ができているのは全然悪くない。いつだったか、友人から言われて妙に印象に残っている言葉に「人生ケセラセラだよ(なるようになるさ)」があります。

 別に病気のことを話していたわけではなく、ただの世間話に何げなく出てきた言葉ですけど、「本当にそうだな」と腑に落ちました。これからもケセラセラで生きていきます。

(聞き手=松永詠美子)

▽やまざきもーたーす 1969年、滋賀県生まれ。大学進学で上京し、アルバイト先で知り合った白川安彦とお笑いコンビ「ノンキーズ」を結成。2002年に解散し、04年に新しい後輩の末吉くんと「山崎末吉」を結成するが、その直後に病気が発覚してコンビを解消した。知人の計らいで07年からワタナベコメディスクールの講師を務めつつ、お笑いコンビ「くらげライダー」を経て、ピン芸人に。16年に開校した太田プロのお笑い学校講師となり、現在は講師を中心にお笑いライブの企画・運営で手腕を発揮している。https://mortors-owarai.amebaownd.com/

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