独白 愉快な“病人”たち

サッカー選手の松本光平さん 外傷性の両眼の障害との闘い

松本光平さん
松本光平さん(C)日刊ゲンダイ
松本光平さん(プロサッカー選手)=外傷性黄斑円孔・外傷性網膜剥離

 見た目はわかりませんが、右目は真っ白で何も見えていませんし、左目もぼんやりとかすんだ感じ。前に人がいることは分かりますが、顔のパーツはあまり見えていません。この先も元の視力を取り戻せる可能性はほとんどありません。

 でも大丈夫。僕は右サイドバックというポジションなので、右側はサイドラインしかないわけで、最悪、左側が少しでも見えればサッカーはできるなと思っています(笑い)。

 事故が起こったのは今年の5月半ば、ニュージーランドの選手寮のガレージでした。コロナ禍で練習もないので、1人でトレーニングしていたのです。ボートを漕ぐような格好でチューブを全力で引っ張っていたその時、チューブを固定していた金具が外れて僕の右目を直撃しました。一瞬、変な声が出てしまったくらい痛みを感じ、痛すぎて右目を押さえてしばらくうずくまってうめいていたと思います。

 その後、恐る恐る鏡を見ると、全部がぼやけていました。そこで初めて左目も負傷していることに気づいたのです。外れた金具とともに飛んできたチューブが左目にも当たっていたのです。

 その時から右目は真っ白で何も見えなくなっており、尋常ではない痛みが続いていました。寮にいるチームメートに連絡をして救急車を呼んでもらい、街にある大きな病院に運んでもらいました。でも、「今日は目の専門医がいない。眼球は割れていないので大丈夫なんじゃないかと思う。明日また来てくれ」と言われ、そのまま帰宅しました。

 翌日は目の専門医がいたものの「炎症が激しすぎてしっかり見えないから1週間後にまた来てくれ」とのこと。仕方がないのでほぼ何も見えないのに、寮で1人暮らしを続けました。コロナ禍で街がロックダウンしていて外食ができない時期だったので、買い物をチームメートにお願いして、あとは自炊。ニンジンがどこまでむけたか、肉が焼けたかどうかも見えないので、ずいぶん焦げた肉を食べました(笑い)。

 食べるのはもちろん、歩く振動でも右目が痛い状態です。眼圧が高いせいなのか嘔吐することもありました。結局、ニュージーランドの病院では「黄斑部に穴が開いていて手の施しようがない。最悪は眼球摘出になる」と言われてしまいました。

 並行して日本のトップクラスの眼科医に相談していたので、現地の診断結果が出た段階で帰国を決意しました。飛行機に乗れる程度まで眼圧が下がるのを待って、帰ってきたのが5月末日。コロナ禍なので帰国者は2週間、隔離用ホテルに滞在となりますが、病院指定のホテルだったので翌日には診察を受けることができました。

 そこでは「右目の黄斑部に穴が1つと、網膜剥離が2カ所ある」との診断でした。医師からは「網膜剥離は治せるが、黄斑部の穴は日本でも手を付けられない。でも、自分なら1~2%くらい可能性があるから手術を受けてみたらどうか?」という提案をされました。

 もちろん迷うことなく提案を受け入れ、診察から1週間後に手術を受けました。手術をしてみたら、黄斑部の穴は3つもあったそうで、眼球が破裂していなかったのが奇跡だと言われました。

 術後2週間は、眼内に入れたガスの関係でうつぶせ厳守でした。入院は3日間。そのうちの2日間は強烈な痛みでした。

■隔離ホテルで‶うつぶせ生活”

 その後は、隔離ホテルに戻って死ぬ気で“うつぶせ生活”をしました。幸いにも食事は、アスリートを支援する企業が完全栄養食のパンを大量に支援してくれたので、それをベッドの横に積んで、うつぶせのまま手探りで取って食べました。

 一番心配だったのは、寝ている間に無意識にあおむけになってしまうこと。なので、ホテルのスタッフに事情を説明して、帯のようなものでベッドに縛ってもらったりもしました。

 うつぶせ2週間の後は、あおむけで安静の期間があり、1カ月はほぼベッドの上でした。

 その間は買い物にも出られないので食事は例のパンだけ。体重は1カ月で12キロ減りました。でも、血液検査の結果は正常で、さすが完全栄養食だと思いました。

 ホテルでの隔離終了後は、マンスリーアパートを転々としています。初めは病院のそば、今は散歩ができる公園のそばで暮らしています。歩き始めはフラフラで、サングラス姿で転びながら公園を何往復も散歩していたので、お巡りさんに職務質問されたりしました(笑い)。でも、ボールを触れるようになってきたので近々ボールが蹴れるグラウンドのそばに移る予定です。

 今年も年末に開催される予定の「FIFAクラブワールドカップ」出場を目指しています。正直、「行けるな」という感触もあります。

 この先、パラリンピックを目指して、視覚障害者枠で陸上100メートル走T12クラスにチャレンジしたいとも思いますし、医療の進歩があるかもしれないから、気持ちは全然ヘコんでいません。ヘコんだのは眼球だけです(笑い)。

 つくづく思ったのは、事故に遭ったのが寮にいる同僚選手の子供たちじゃなくてよかったということです。僕なら日本で医療が受けられるし、丈夫な眼球でしたからね。

(聞き手=松永詠美子)

▽まつもと・こうへい 1989年、大阪府生まれ。幼少期からサッカーを始め、中学生でセレッソ大阪U―15に入団。卒業後はガンバ大阪ユースチームに加入した。その後、学生ビザでイングランドのプロサッカークラブ・チェルシーFCコミュニティーに入団。2012年からはオセアニア諸国のクラブを転々とし、19年にはニューカレドニアのクラブチーム「ヤンゲン・スポール」の一員としてFIFAクラブワールドカップに出場した。右目失明の大けがを負ったが、クラウドファンディングで支援を受け、再起に向けてリハビリに励んでいる。

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