がんと向き合い生きていく

「髪の毛が抜けてしまうのは嫌!」叫んでみても気持ちは…

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 Mさん(57歳・女性)は、長年、山里の農村で猫のミーヤと一緒に畑と庭を相手にして暮らしています。大きなしだれ桜、栗の木、柿の木などがあり、また、近くには大きな川が流れていて、繰り返す四季を楽しんでいました。

 Mさんは、車で40分ほどかかる町の病院で左乳がんの手術を受けてから2年間、ホルモン治療を続けています。手術した後も特に左腕に支障はありませんでしたが、先月、左の脇の下にリンパ腺が腫れたようなしこりに触れました。すぐに担当医に診てもらい、外来でその日のうちに局所麻酔して切除しました。

 それから2週間後、病理結果でしこりは乳がんの転移、つまり再発と分かりました。担当医からホルモン治療はそのまま続けること、そして来週から抗がん剤の点滴治療が始まることについて説明を受けました。担当医は40代と思われる、ヒゲの濃い、ぶっきらぼうな医師でしたが、患者たちには信頼され、Mさんも良い医師だと思っています。

 診察の後、外来の看護師と薬剤師から、使われる抗がん剤や点滴を受ける時の注意などいろいろな説明を受け、Mさんはたくさんのパンフレットをもらって帰ることになりました。

 病院の隣のそば屋で昼食を済ませ、車を運転して帰る途中、ふと母のことを思い出してお墓に寄ってみることにしました。天気が良く、3000メートル級の山々の中腹には雲がかかっていましたが、山頂はきれいに見えます。

 墓地は、遠くの山脈が望める小高い丘にありました。50基ほど集まった墓石は、ご先祖さまが山々を眺めることができるようにと考えたのでしょうか、全基が山脈に向かって立っています。

「ご先祖さまは、毎日、山を眺めておられる」

 Mさんはそう呟いて、道中にあるスーパーで買った黄色い菊の花を供えました。

 お墓の隣に座り、ご先祖さま、亡くなった父母と一緒に山々を眺めているうちに、雲がライオンのように見えました。大きく口を開け、さらに胴体と尻尾もあります。

■雲がご先祖さまに

 ふと、宮沢賢治だったか、誰かが言ったことを思い出しました。

「人間も自然もこの世を形成している分子のひとつである。分子や原子というのは、お互いに結びついて事物を形成している。結局、この世に存在するものは、すべてがつながっている。死んだら自然に返る。灰になっても、それが土になり、そこからまた植物が生まれ、動物が育つ。われわれの体の細胞を作っているのと同じ元素や分子で、同じ物質で、自然は繰り返され、循環していく。人間も自然の一部に過ぎない」

 きっと、そうなのだ。そうなのだろう。でも我が家では、死んだら灰にして、お墓の中の骨壺に入れる。ご先祖さまもずっとお墓の骨壺の中にいる。骨壺は益子焼だ。昔、祖父の友人がこしらえた壺だ。土に返るのではない。だから、我が家の灰は植物や動物になる自然の循環にはなかなか入らない……。エジプトのピラミッドだってずっとミイラのままだ。でも、人間の起源は500万年前か……。

 Mさんは、なんだかつまらないことを考えているなと思いながら、周りに誰もいないのを確認してから、大きな声で叫びました。

「リンパを取ってしまったから、もうがんがないと思ったのに、先生はきっと見えないがんが残っているから、抗がん剤治療をすると言うのです。ご先祖さま! 私、抗がん剤治療は受けます。でも、嫌なんです! 髪の毛が抜けてしまうのは嫌です!」

 叫んでみれば、少しは気持ちがすっきりするかと思ったのですが、ちっとも変わりません。

 先ほどの雲は、ライオンの形から、ご先祖さまかお釈迦さまが横になっている姿のように、形が変わって見えてきました。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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