上皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

医療の将来のために「1県1医大政策」の精神を見直すべき

天野篤氏
天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

 昨年65歳となり、いわゆる定年で主任教授を辞し、4月から大学の理事兼特任教授として病院では現役の外科医として手術を続けていきます。講座の主任教授に一区切りをつけるに当たって、自分が医師になった当時のことを振り返ってみると、日本の医療界は、今こそ「1県1医大政策」の精神を見直す時期なのではないかと感じます。

 1県1医大政策とは、地方の医師不足や偏在を解消するために当時の田中角栄内閣が1973年からスタートさせた政策で、医学部がなかった15県に医科大学(医学部)が順次新設されました。79年には沖縄の琉球大学に医学部が設置されて50校の国公立医大が整備されたうえ、私立の医科大学も新設ラッシュが始まって29校に増え、医学部受験が過熱しました。

 私が初めて医学部を受験したのは74年ですから、まさに1県1医大政策の真っただ中で、合格するには50倍近い倍率をくぐり抜けなければならない状況が当たり前でした。そんな時代に医師になった人たちは、成績良好で志望通りの医学部に進学ができたタイプに加え、別の2つのタイプの医師志望者たちがいました。経済的に恵まれず新設された地方の国公立大の医学部に進んだ医師たちと、莫大な寄付金が必要だった新設私立医科大に進んだ裕福な家庭で育った医師たちです。

 そうした医師の中には、「増設された医学部のどこかに引っ掛かって医者になれさえすればいい」という意識で受験に臨んだ人も少なくありませんでした。ですから、「努力して医者になって患者さんのために貢献し、社会に恩返しをしたい」といった高い志を持ち続けている人は、そうそう見当たりません。そんな彼らが今、若い医学生を指導する立場になっているのです。これでは、地方医療の疲弊をはじめとする今の医療界の問題は、この先も改善されないでしょう。

 ただ、1県1医大政策が進められていた時代に医師になった人たちの中にも、「医者になって患者さんを救って世の中の役に立ちたい」といった志を持っている医師はゼロではありません。私自身もそうであると思っています。

 数が少ないからこそ、日本の医療界の問題を解決するためには、そうした志を持った医師たちが行動しなければならないのです。

■地方医療の疲弊を食い止める

 1県1医大政策は、最後に設立された琉球大学医学部が卒業生を輩出した87年に一区切りがついたといえます。一時は「医師の数を減らしたほうがいい」という声もありましたが、舛添要一氏が厚労大臣を務めていた時代にその意見は否定され、地方の医師不足を解消するために医学部の定員が増やされることになりました。さらに、安倍晋三内閣の頃に、東北医科薬科大と国際医療福祉大に医学部設置が認可され、この時点でかつての1県1医大政策の構想は完全に終わりを迎えたといえるでしょう。

 そうした流れの中で1県1医大政策という考え方がほとんど表に出てこなくなったこともあり、今一番脂がのって現場でバリバリ活躍している2003年以降に医師になった人たちは、1県1医大政策にまったく馴染みがありません。

 なおかつ、03年以降は医学部受験がさらに過熱して、「医師のつくられ方」が大きく様変わりしました。受験に強い中高一貫校が注目され、12歳で将来が決まってしまうような状況が生まれました。医学部に進む学生はそれほど貧しい家の人たちではなくなり、以前なら国公立大を選択していた学生も私立の医科大学に進学するようになりました。大幅な経済格差がなくなって、医師を目指す学生の意識も変わってきたのです。

 そんな時代だからこそ、1県1医大政策の精神を見直すべきだと考えています。医師になって自分が地方医療の疲弊を食い止める――。1県1医大政策がスタートした時期に医師になったわれわれの世代は、自分の経験をもとにしながら、そんな志を持った医師を育てていかなければなりません。

 次回は、私が考える案についてお話しします。

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天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

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