がんと向き合い生きていく

熱い情熱を持った指折りの放射線治療医が亡くなってしまった

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 人の運命は分かりません。たくさんのがん患者を放射線治療で治してきた、私より10歳以上も年下の唐沢克之医師がこの春、突然、大動脈解離で亡くなりました。がん征圧に熱い情熱を持った日本では指折りの優秀な放射線治療医でした。

 患者さんに優しく、いつもにこにこして前向きで、そのような態度から患者さんは希望が湧き、救われてきたと思います。研究熱心で、後輩や研修医の指導でも彼の熱い思いが伝わってきました。

 先日、お願いした患者さんが彼の診察を訪れた時、わざわざ唐沢医師が私に電話をくれて、「先生! しばらくぶりです。患者さん、大丈夫です。治療できますよ!『ヴェロ(VERO-4DRT)』でいきます」と報告いただきました。その際、電話を代わった患者さんからは「頑張ります」と元気な声が聞かれました。それまで、がんが肺に再発して気持ちが落ち込んでいたのに、前向きな気持ちになれたようです。

 唐沢医師は、患者さんに放射線治療の最新装置であるヴェロを見せ、説明してくれたようでした。肺は呼吸によって動きますが、肺に転移したがんも同時に動きます。ヴェロはこの動く転移巣を追尾して放射線を照射する装置です。ミサイルを追尾して迎撃するのと同じ考え方で、まだ国内では少ない台数しかありません。

 その後、患者さんは順調に治療を進めることができました。しかし、元気な唐沢医師の声を聞いたのは、期せずして電話をくれたあの時が最後となってしまいました。

 唐沢医師は毎日、病院で夜中まで仕事をしていました。電話で話した10日後、その晩も深夜まで病院の医局の自室で、講演用のスライドを作成していたようでした。

 急に胸痛を自覚し、救急室にたどり着いた直後、心停止してしまったのです。

 翌朝、この悲報を聞いて、私はしばらくただ呆然としました。よく「役者は舞台で死ぬのが本望」などと聞きますが、彼はもっと仕事をしたかったでしょう。間違いないと思います。

■治療の最先端で多岐にわたって活躍

 唐沢医師が赴任してきた25年前から、がん治療の診療だけでなく、併設されていた研究所でネズミやミニ豚を使って一緒にがんの研究をしました。「がんに対してより効果を上げ、副作用を少なくする」――この考えは、放射線治療でも私が専門とする抗がん剤治療でも同じでした。

 ある時、私は冗談のように「あなたが母校である東大の教授に選ばれたら考えてもいいけれど、それ以外はみんな断ってね」と唐沢医師に言いました。すると彼はにっこりして、「分かりました!」と答えてくれました。とても深く印象に残っています。

 唐沢医師の活躍は、放射線治療の最先端で多岐に及びました。膵臓がんや脊椎腫瘍に対して、手術の最中に直接照射する「術中照射治療」を行い、IMRT(強度変調放射線治療)を主とする高精度放射線治療装置「トモセラピー」では毎回、治療直前のCT画像を元に小さくなったがんの形に沿って照射範囲も小さくして、周りの副作用を減らす方法を実施。

 さらに、第4世代の「サイバーナイフ」では、脳腫瘍や転移性脳腫瘍などに1ミリの誤差範囲内で放射線照射するピンポイント治療も行ってきました。これら最先端の装置を使い分け、熱い思いで多くのがん患者の治療にあたっていたのです。

 いまは、唐沢医師が育てた後輩たちがレベルを下げることなく頑張ってくれていますが、あの人懐こい、がん征圧への熱い熱い思いを抱いた彼にはもう会えません。

 病院のホームページには、唐沢医師が記した「当科のモットーは患者さんの身体に優しく、確実に治療する」との言葉があります。

 人生は何があるか分からない。たくさんの先人の哲学から「それが人生だ」と聞かされても、まだ現実味を感じません。長く一緒に仕事をし、親しくさせていただき、しかもあの元気な彼が、いま死ぬとはとても思えない彼が、亡くなってしまった。

 いまもまだ、「先生!患者さん良くなりましたよ」と、彼が電話してきてくれそうな気がするのです。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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