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がん医療は変わってしまった…夫を亡くした看護師からの手紙

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 某市にあるC病院での出来事です。入院中の夫がいるB子さんは、面接室で担当医から、こう告げられました。

「今のままでは、いつ亡くなってもおかしくない状態です」

 B子さんは「分かりました」と言って、夫のAさん(58歳・建設会社勤務)がいる病室へ戻りました。Aさんは進行した肺がんで、すでに抗がん剤はやり尽くし、今回は呼吸困難となって入院されました。

 Aさんは鼻から酸素吸入を受けながら、部屋に戻ったB子さんに向かって「大丈夫だよ」とほほ笑みました。コロナ禍で長く病室に滞在することはできません。B子さんは少しだけホッとして病院から離れました。

 B子さんが自宅に戻っておよそ30分後、携帯電話が鳴り、担当医から、すぐに病院へ戻るよう言われました。

 B子さんが病室に駆け付けると、担当医と看護師がベッドの脇に立っています。Aさんの呼吸は止まっていました。

「20時34分、亡くなられました」

 そう告げられた瞬間、B子さんの頭の中にこんな思いが浮かんできました。え! 34分って、今からたった5分前? 何で私が着くまで生きていてくれなかったの……。

 そして、「どうして!」と叫びました。

「いつ亡くなってもおかしくない状態とお話ししていたと思います」

 そんな担当医の言葉を聞きながら、B子さんは泣き崩れました。

 B子さんは看護師で、20代の頃に私と同じ病棟で働いていました。あれから約30年、B子さんはAさんの転勤で他の病院に移り、以来、お会いする機会はありませんでした。他の病院では、B子さんは新生児科、眼科などに勤務し、ほとんど、がん末期の患者の看護にあたることはありませんでした。

 私とB子さんが一緒に働いていた当時は、がんの最期でも、いざとなれば家族が集まるまで生きてもらえる努力をしました。呼吸が止まると胸に手を当てて人工呼吸を、心臓が止まると心マッサージをしました。状態が悪くなれば、当直医がいても私は病院に泊まりました。

 後日、B子さんは私のことを思い出して手紙をくれました。そこには、Aさんの最期が書かれていました。

 ◇  ◇  ◇

 がん医療は変わってしまったのですね。私たちは助からないと分かっていても、生きるための努力をしました。最期の蘇生は意味がないと言われても、家族もそれで納得できるように、息を引き取る時は、お別れができるように努力しましたよね。私がC病院に戻った時、医師も看護師も、ただ呼吸の止まった夫のそばに立っていただけなんです。患者の死は、ただただ、今は他人の死なんですね。

 新しい薬がたくさん出て、治療法は進歩したのかもしれません。でも、私たちの時代には患者と一体感がありました。死んでいく者と、残される者の間に切なさがありました。愛情がありました。患者が亡くなった時に私は泣きました。他の患者に分からないように、時にはトイレで泣きました。先生だって泣いていたのを知っています。

 短い期間でしたが、夫の治療を、担当医は頑張ってくれたと思います。今はコロナ禍の時代で仕方がないのかもしれません。コロナは人と人を引き裂いています。テレワーク、人流を減らせ、病院では面会も自由になりません。入院させていただけただけでも良かったと思うようにしています。葬儀は簡単に済ませました。夫の会社の方が2人来てくださいました。

 今、私は病院を辞めて、それでも働いていたほうが精神的に楽かなと思って、あるクリニックに勤めています。近くの公的病院がコロナ患者を受け入れるようになり、患者の病院への紹介がうまくいかなくなって苦労しています。

 ◇  ◇  ◇

 私は慰めの言葉もありませんでした。

 毎日のコロナ感染者、重症者、死亡者数の発表を聞くと、人の命が軽くなっているように感じます。コロナが収まった後、引き裂かれた人と人の心は戻ることができるのでしょうか。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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