がんと向き合い生きていく

がんで亡くなった旧友の病気を知っていたら役に立てただろうか

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 旧友であるM君の奥さんからハガキが届きました。そのハガキには寅さんがカバンを持って歩く姿が印刷されています。そして、こう書かれていました。

「あの世から(帰ってくる)といって永遠の旅に出かけました」

「地域医療に励み……M家一族の面倒をみました。医師としていやな顔せず頑張ったと思います……全身がん発覚から4カ月で亡くなりました」

 M君と私は、約3年間、同じ下宿にお世話になりました。古い家の2階に2部屋があって、それぞれM君と私の部屋でした。朝食と夕食は1階にある大家さんの居間まで下りて、畳に座って2人で向かい合っていただきました。

 夜、M君の部屋でよく将来のことなどについて話しました。彼は地域の医療のこと、私は研究の道……などを話題にしました。

 暗い私の部屋とは違って、M君の部屋はいつもきれいに整理されていました。アンディ・ウィリアムスの「ムーン・リバー」など外国歌手のレコードがあり、よく一緒に聴きました。私は小学生の頃、昼休み時間に劇場から町中に響く三橋美智也の歌に慣れ親しんだのですが、それとはまったく違った雰囲気でした。

 M君は、いつもニコニコ笑顔で悩み顔を見せることはなく、美男子のスポーツマンでした。テニスが上手で、白の短パン姿がよく似合い、まぶしく見えました。私もテニスを始めてみたのですが、早々にやめてしまいました。部室でみんなが談笑して楽しんでいるのに、なかなか馴染めませんでした。もっとも、私がやめた理由はテニスが上達しなかったからだったと思います。

 M君はよく週刊誌「平凡パンチ」を買ってきました。彼はアイビースタイルを好んだのか、おしゃれでした。私は洋服にはまったく無頓着で、暇があれば日本文学、太宰治の「人間失格」や阿部次郎の「三太郎の日記」などを、好んで読んでいました。

 後にM君の奥さんになった方は、爽やかな長身の美女でした。2人がテニスコートで連れだって歩く姿は、友人みんなが羨む、似合いのカップルでした。

■本当の彼を知らなかったのではないか

 私が下宿先を転居してから、M君とは少し遠のきました。

 卒業が近くなって大学紛争の問題があり、学生の中でも意見が違って、それぞれグループがあったように記憶しています。しかし、M君も私もそれにはあまり関わらなかったと思います。

 私は「社会が良くなるためにはデモ行進に参加しなければならない」と考えながら、それでも「警察に捕まったらどうしよう……親はどう思うだろう」などと悩んだりしていました。弱虫で、それでいて悩む……自分でも困った性格だと思っていました。結局、M君とは大学紛争などのことで議論することはありませんでした。

 M君は、卒業後は大病院で腕を磨き、帰郷してからは地域医療に大変貢献されたのだと思います。私はまもなく上京して、それからはずっと東京暮らしだったので、以後はほとんど会えていませんでした。

 私の中にいるM君は洋風で、奥さんからのハガキに印刷された寅さんのイメージとは違っていました。私は本当の彼を知らなかったのではないか……とも思いました。

 私の友人2人に電話すると、M君が亡くなったことはすでに知っており、私はなんだか力が抜けたような気になりました。

 彼が患った全身がんとは、未分化な胃がんか、あるいは多発性骨髄腫でもあったのか? まったく分かりません。がんを専門にしてきた私が、彼の病気を生きているうちに知ったら、何か役に立てたかどうか……そう思ってもどうにもなりません。

 M君の上品さ、明るさ、テニスコートの白い短パン姿、そして「余裕のある心」。私にはそれらは永遠の憧れになってしまいました。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

関連記事