がんと向き合い生きていく

医学生のリポートを読んで思い出す医学部受験での出来事

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 私は年1回、某大学医学部生に「がん診療における患者の生と死」という題で、講義をする機会をいただいています。

 2年前はコロナ禍で中止、その後はWEB講義となりました。講義の1カ月後に、約100人の学生が、授業の感想、医師を目指した理由、どんな医師になりたいかなどを書き込んだA4の紙の束が私のもとに届きます。これを読むのが楽しみです。

 このリポートでは、医師を目指した理由として「家族ががんで亡くなったことがきっかけになった」と書いてくる学生が毎年3、4人います。

 また、「なるべく死に関わらない科に進みたい」と書いた学生もいました。

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 だいぶ昔のお話ですが、自分の大学受験のことをいろいろと思い出します。

 私は高校生の頃から「人間とは何か?」を大テーマにしていて、「医学部こそが人間を知る近道」と考え、医学部受験を決めました。しかし、経済的な面で国公立大以外は目指せません。

 受験科目は英語、数学、国語が必須で、他には生物、物理、さらに暗記の少ない社会科社会を選びました。社会科社会は哲学などがあって、興味津々でした。国語については、高校の担当教師に嫌われている気がしていて、むしろ夜に「NHKラジオ大学受験講座」の塩田丸男先生の講義を毎回聞きました。

 当時の入試制度だった国立1期校の志望大学に落ちた後、2期校での志望大学の過去問をやってみると、数学が難問でした。父は1浪を覚悟してくれました。私よりいつも優秀な成績だった同級生K君も1期校を落ちて、同じ2期校を受けることになりました。

 受験の宿は、鉄道員だった父が某市駅前の鉄道倶楽部を予約してくれました。試験の前日、その宿の客は私を含めて男性7人で、6人全員が医学部受験生、1人はS君という現役生の付き添いの父親でした。

 私とS君以外の4人は浪人生で、3浪2人、4浪と5浪が1人でした。夕食が終わると、みんな余裕があるのか、揃ってパチンコに出かけました。私はまだ暗記する英単語があって1人だけ行きませんでした。残ったS君の父親が、「あの浪人生の4人は開業医の息子らしい。良いもの着ているね」と話されたのが印象的で、たしかに学生服を着ているのはS君と私だけでした。

 当日の朝はみぞれが降っていました。試験場は古い教室で、ひとつの部屋に25人ほどの受験生が割り当てられ、机をひとつ置きに空けた座席でした。新聞での予想倍率から、私は「この部屋の中で合格する人は1人いるかいないかだ」と思いました。

 数学は過去問とは違って意外と簡単な問題が多く、難なく進みました。 試験2日目の夕方、宿舎に戻ると、同宿の浪人生が「どうだったか」と私に尋ねました。「生物は大丈夫と思う。数学も意外と書けた」と答えたところ、「君は受かったよ」と言われました。もし不合格だったとしても、悔いのない気持ちで終わりました。

 実家に帰ると、父は「仙台の予備校は早くしないと入れないらしいから申し込んでおいた」と、新しい予備校の教科書を5冊渡してくれました。

 翌日、ひとり仙台の街を歩いて下宿先を探しましたが、ぶらぶらしただけで何も決めないで帰りました。

 後日、合格の報告が来た時は、父がいちばん喜んでくれました。新品の予備校の教科書は、もったいないと思いましたが、それでも半年後くらいに捨てました。

 大学に入学してみると、合格した70人の中にはK君、高校1年先輩のT君がいましたが、同じ宿舎に泊まった受験生はS君も含めて誰もいませんでした。あの人たちはどうしただろうかと今でも思うことがあります。

 高校の同級生が、「佐々木が合格したのだから、自分も入れる」と思ったのか、翌年に2人入学してきました。

 優秀だったK君は大学卒業後に内科医となりましたが、3年後に白血病で亡くなりました。外科に進んだT君は長年、地域医療に貢献されましたが、2年前に全身がんで亡くなりました。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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