上皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

「もうひとりの自分」と「時間が止まる」 高みを目指す過程で現れた2つの感覚

天野篤氏
天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

 前回、およそ20年ぶりに手術での縫い方を変えたことについてお話ししました。チームのスタッフとの連携があまりうまくいかないケースがあり、縫合している最中に糸が切れてしまうトラブルが何度か発生したことが大きなきっかけでした。

 手術の完成度をより高めるためにも、私は「変革は常に必要」という信念を持っています。とはいえ、これまで日常的に繰り返してきた動きを変えるわけですから、まったく悩まなかったかといえば、そうではありません。

 執刀医のサポート役である助手に頼りすぎることなく、周囲との調和を図って連携をスムーズにするために何をすればいいのか──。あれこれ思案した結果、縫い方の変更に行き着き、背中を押してくれたのは「もうひとりの自分」でした。まるで幽体離脱したかのように全体を俯瞰して見ているもうひとりの自分が現れ、「そろそろ縫い方を変えたほうがいい」とささやいたのです。

 何かに迷ったり、予期せぬ事態が起こったときにもうひとりの自分が現れるようになったのは、医師になって10年ほどたった38歳の頃でした。手術中に想定外のトラブルが発生したとき、手術台を上から俯瞰して冷静に見ているもうひとりの自分が現れ、耳元で指示をささやくのです。

 この難局をどう切り抜ければいいのか。それまでの手術の流れから見て、このまま方向転換しなくてもいいのか、別の道を探すべきなのか。状況、時間、疲労などの状態を加味して、進むべき方向を示してくれます。「そのまま進んだらダメだ」「ここは止まったほうがいい」「もっとよく考えて別の方法を探せ」──。もうひとりの自分のささやきによって、全体を俯瞰して見て、流れに身を任せながら決断して方向を決めることができるようになりました。

 今回、もうひとりの自分の客観的なささやきもあって縫い方を変える決断をした結果、私の中にあった助手への依存心が減り、糸が切れてしまうトラブルもなくすことができました。

■周囲の動きがスローモーションで見える

 もうひとりの自分と同じような感覚として、「時間が止まる」と感じることがあります。自分の持っている時間と周囲の時間に大幅なずれが生じ、周りの動きがすべてスローモーションで見えるのです。たとえば、手術を進めていて予期せぬトラブルが起こり、迅速に処置しないと危険だといった状況に陥ったとき、急に周囲の動きがスローになり、自分は普段通りにやっているつもりなのに、普通では考えられないようなスピードで正確に処置を終わらせることができた。そんな経験が何度もあります。

「火事場のバカ力」ではないですが、ピンチが訪れた際は極限まで集中力が高まり、これまで蓄積してきた経験、知識、技術などが瞬時にフル動員され、尋常ではないスピードで対処することができるのでしょう。

 かつて日本プロ野球史上初の2000安打を達成し、「打撃の神様」と称された元巨人の川上哲治さん(故人)は、「ボールが止まって見えた」と語っています。打撃投手を相手にバッティング練習をしていたところ、突然、ボールが止まって見える感覚に襲われたといいます。私が感じる「周囲の時間が止まる」という感覚は、おそらく川上さんのそれに近いのではないかと思っています。

 昨年暮れに開催されたサッカーW杯カタール大会のドイツ戦で決勝ゴールを決めた日本代表の浅野拓磨選手(ボーフム)も同じ感覚だったのではないかと推察します。味方DFからのロングボールに反応した浅野選手は、ボールを受けてから数秒で相手のペナルティーエリア内まで侵入し、ほとんど角度のない位置からGKのニアサイド上にボールを蹴り込みました。

 だれも浅野選手の進路を阻むことができず、GKにしてもいつの間にかゴールを決められていたような感覚だったのではないでしょうか。ゴールが決まった瞬間、観客も含めて「いったい何が起こったんだ」と感じたはずです。しかし、浅野選手はゴールを決めようといつも通りにプレーしただけで、周囲の時間とのずれが生じていたために一瞬で勝負がついたのだろうと思えるのです。

 このゴールを目にしたとき、私は「きっと神様が浅野選手に対して周りとは異なる“特別な時間枠”を与えたのだろう」と思いました。

 これに近い「時間が止まった」と思えるような体験は、おそらく多くの人が経験しているのではないでしょうか。テストの終了時間が迫り、絶対に全問解答は無理な進捗状況だったのに、終わってみれば最後まで解答できた。その電車に乗れないと遅刻は確実で、とても間に合いそうもないのに、なぜか時間通りに乗車できた。追い詰められた状況で、そんな経験がある人は多いはずです。

 私は毎日のように繰り返してきた手術の中で同じようなケースがたくさんありました。それを数多くこなしてきた結果、いまでは手術中に「この5秒間は自分の時間にしなければいけない」と思ったときは、その時間を“特別な時間枠”として使えるよう多少は制御できるようになりました。

 今回お話しした2つの感覚は、常に手術のより高い完成度を目指し、ひたすら突き詰めてきたことで与えられた“ギフト”なのかもしれません。

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天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

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