医療だけでは幸せになれない

「コロナは風邪」論争の不毛 昔から解決できない問題に出口なし

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写真はイメージ(C)日刊ゲンダイ

「コロナは風邪である」といっても、「風邪でない」といっても、どちらにしても多くの反対があるだろう。コロナには、風邪としての側面と、風邪とは違う側面の両方があるといえば、多くの人が納得するかもしれない。

 コロナは風邪であるという人は、大部分のコロナはほかの風邪と同様に熱や鼻水、喉の痛みが出るが数日で治ってしまうし、普通の風邪であっても重症化することはあり、根本的な違いはないということだろう。

 それに対して風邪でないという人たちは、重症化リスクが高い、感染そのものが重症化しなくても血栓症や心筋炎など合併症を引き起こし、後遺症を残す割合が高い、感染力が飛びぬけて強いことを理由に、風邪ではないという。どちらも間違ってはいない。ただ、どちらかが正しいということもない。

 しかし、これが個人個人で起きることに目を向けるとはっきりしている。実際にコロナに感染した人が、軽症で数日のうちに回復すれば、ただの風邪と変わりがなかったというのは、その通りのことだろう。逆に肺炎を合併して重症化し、人工呼吸器やエクモ(ECMO)につながれた人は、普通の風邪ではなかったという。前者の人の経験に対して、それは風邪ではないという人はいないだろうし、後者に風邪だよねという人もいないだろう。ここに問題はない。そうだとすると問題は何なのか。個別に起こっていることではなく、全体として何が起こっているかということになるかもしれない。

■キリがない議論

 この「全体」ということがどういうことなのか、少し考えてみたい。軽症で治った人が、自分の知っている範囲と同じような人しか知らない。入院になったという話は聞いたこともないという場合である。これもその通りのことだ。しかし、この話には容易に反論できる。「それはあなたの周りにはたまたま重症化リスクが低い人しかいなかったからだ」と言えばよい。あなたの周囲に多くの高齢者や、肥満や糖尿病の人がいれば、その中には重症化して入院するような人が出てくると説明できる。

 ただ、この反論に対して「そんな私が見たことも聞いたこともない人たちのことを言われても知らない。私は私の知っている人の中だけで生きているので、そんなことは関係ない」と言われたらどうだろう。この人にとっての全体は、自分の知っている人ということで、その中ではコロナは確かに風邪に過ぎない。

 しかし、この反論に対してさらに反論を考えてみる。「あなたは自分の知らない人に対しては、無視してもいいというのか。自分の知らない人が重症化してもそれはどうでもいいというのか」というのはどうか。これも十分理屈は通っているが、この反論に対しても反論することはそれほど難しいことではない。

「どうでもいいというわけではないが、そこまで広い範囲を考慮するのは私の役割ではなく、地域、市町村、あるいは都道府県、国が考えることではないですか」というのはどうか。しかしこれにだって反論はたやすい。

「それでは、国が『コロナは風邪でない』と言えばそれに従うんですね」というわけだ。それでも「いやいや、国がそう言ったところで、一人一人がどう考えるかは自由でしょう」ということになる。

 ここで強調したいのは、この議論のどちらに分があるかということではない。この議論にはキリがないということである。

 この反論の続きを考えてみればよい。いくらでも考えることができる。もし考えることができないとしたら、自分の確固たる意見があるという場合もあれば、自由に考えることができないというだけかもしれない。全体を考えるのはそもそも困難だ。

 コロナの議論の中で最終的にはどう考えるんだということになった時に、最終的にはよく分からないということが大部分だと思われる。

 前回指摘したように、コロナで持ち上がった問題の大部分は、繰り返し立ち現れているにもかかわらず、解決されないままの古くからある問題だからだ。

 判断を猶予する。これがコロナの問題を考えるために、最も重要なことかもしれない。

名郷直樹

名郷直樹

「武蔵国分寺公園クリニック」名誉院長、自治医大卒。東大薬学部非常勤講師、臨床研究適正評価教育機構理事。著書に「健康第一は間違っている」(筑摩選書)、「いずれくる死にそなえない」(生活の医療社)ほか多数。

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