医療だけでは幸せになれない

欧米の「ロックダウン」と日本の「外出自粛」…個人と全体の問題を考える

イタリアではクリスマス中もロックダウンが続いた(C)ロイター/Valeria Mongelli/Hans Lucas
イタリアではクリスマス中もロックダウンが続いた(C)ロイター/Valeria Mongelli/Hans Lucas

 多くの個人にとって風邪に過ぎないコロナが、全体としては多くの重症者や死者をもたらし、医療機関に過大な負荷をかけ続けている。その相反する状況の中、日本や世界がどのように感染対策してきたかを振り返りながら、個人と全体の問題を考えてみたい。

 日本のコロナ対策は、大枠としては個人の判断に任されてきた。あくまでも「自粛」という形で対策が進められているものが大部分である。これは「ロックダウン」が行われた欧米と根本的に違うものである。ロックダウンは、国民に外出制限を義務付け、そこに国民の選択の余地はない。法的な契約関係である。それに対して、自粛にはあくまでも国民の自発的な対応が求められ、外出するかどうかはあくまで国民の判断の結果ということになる。

 この違いのひとつは、ロックダウンは道徳的、倫理的な判断を国がしているのに対し、自粛は国民側がその判断をしているということだろう。国が決め、国民が従うのが前者であり、国の勧めに基づいて国民が決めるのが後者である。ここには何やら不思議な面がある。インフォームドコンセント、人生会議など、欧米から日本の医療にもたらされたものは、個別の意思に基づく自己決定がその基盤である。個人が重視され、個別の決定を重んじる欧米と、個人より世間の影響が大きく、個別の決定を重く見ない日本というのが背景にある。しかし、コロナの対策として現れたものは逆である。国の決定を重視する欧米のロックダウンと、個人に判断をゆだねる日本の自粛ということである。

■日本では個人レベルで「法律より道徳」が優先される?

 このねじれは、日本の状況を考えるうえで重要な点のように思われる。日本にはそもそも法律に対する意識が低い。法律より世間や周囲を重視する傾向が強い。法的な規制をかけても、自粛という形であっても、どちらでも同じような効果が得られるという読みが政府にあったかどうかは分からないが、結果から見ればそういうことであったような気がする。

 この法に対する意識に関して、まず思い浮かぶことがある。結婚に関しての現実と日本国憲法の記載とのギャップである。日本国憲法第24条第1項では「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とうたわれている。しかし、現実はお互いの両親を訪ねて、結婚の許しを得るという場面が現実にもよくあるし、ドラマでもしばしば見られる。

 憲法に基づけば、結婚は両性の合意「のみ」に基づいて成立し、両親の許しは不要どころか、両親の結婚を認めないという態度は憲法違反になる。しかし、両親の許しが得られないから駆け落ち同然で結婚したという話は時々耳にするが、許してくれない親に対し、憲法違反だと反論したという話は聞いたことがない。

 何の話だか分からないかもしれないが、話は単純である。日本人のこの結婚に際し両親の許しを得るという態度と、自粛は似ているということである。日本では、法律より道徳や倫理が個人のレベルにおいてこそ優先される傾向が強いのかもしれないということだ。

 ところが、それが道徳観、倫理観というより、単なる同調圧力ではないかという指摘がある。少なくとも個人の自発的な判断にゆだねられた結果、個人個人が、道徳的にどうか、倫理的にどうかを考えた末に判断し、対応を決めたかどうかといわれれば、そうではないというのが現実だろう。

 いくら両性の合意といっても、両親の合意を得るのが道徳的、倫理的に重要だ--結婚に対してはそんな面がある。それでは、コロナの外出自粛についてはどうか。多くは自分が感染したくないというだけだったかもしれない。自分自身が感染源になったら大変だという意識は、活動的な人の中にはあっただろう。ただ、多くの人はその判断に際し、意識的に道徳的、倫理的にどうかとは考えてはいないのではないか。そして、その背景には日本の道徳観や倫理観が均質ということがあるような気がする。

 コロナを考えることは、日本の道徳観、倫理観を考えることでもある。

名郷直樹

名郷直樹

「武蔵国分寺公園クリニック」名誉院長、自治医大卒。東大薬学部非常勤講師、臨床研究適正評価教育機構理事。著書に「健康第一は間違っている」(筑摩選書)、「いずれくる死にそなえない」(生活の医療社)ほか多数。

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