がんと向き合い生きていく

がんで亡くなった先輩の思い出…内視鏡検査が抜群に上手だった

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 私が大学の医学部を卒業して、半年後に赴任した病院にS先輩がいました。その病院の内科は主に消化器のグループでスタッフは7人、結核などの感染症以外の患者を受け入れていました。S先輩は上から4番目、私はいちばん下の7番目です。このグループは2つの病棟を受け持っていました。

 S先輩が内視鏡検査を行う時には、私は一緒に検査に入り、内視鏡検査の方法や生検方法などを指導していただきました。内視鏡検査で使うファイバースコープは、今よりもずっと可動が悪かったと思うのですが、S先輩はスコープの反転などがとても上手で、患者に苦痛なく検査されていました。

 S先輩には1年半にわたってご指導をいただきました。胃内視鏡検査で早期がんを見つけた時、大腸二重造影法のX線写真で褒めていただいた時……忘れられない思い出です。

 時間外でもS先輩はいろいろな話をしてくださいました。学生時代に結核を患われたようで、1年遅れて卒業されたのですが、「その分、2学年の同級生を持った」とお話しされていました。たしかにS先輩には利になっていたように思います。また、結核で入院中にこっそり病室の窓から抜け出て、また窓から戻ったような思い出話も何度か聞きました。

 S先輩について、ある医師は「彼と比較すると、自分がいつも損をして生活しているように思う」と言われます。S先輩は何をするにも手際がいいからです。

 科内の調整がとても上手な方で、部長をはじめとする上司は、さまざまなことで彼に意見を求めたように記憶しています。その点でもS先輩は貴重な存在だったと思います。また、何事も先、その先を読める方でした。S先輩のような生き方がとても羨ましく思いました。

 夜になると、S先輩は直接家に帰ることはなく、1、2軒、お酒を飲まれてから帰宅されました。飲み方もとても上手だったと思います。日本酒はほとんど飲まれず、ウイスキーの水割りばかりでした。一緒に飲み終わると、私は医局に戻って寝泊まりしていました。

■マージャンやゴルフも得意だったが…

 S先輩はマージャンやゴルフも得意分野だったのですが、この分野については何も教わってはいません。私には勧めませんでした。私のことを勝負事は向かない人間と、そう判断されていたのかもしれません。

 S先輩はご自身のお父さまが亡くなられた時以外は仕事を休むことはありませんでした。

 びっくりしたのは、ある日曜日です。お昼近くになって、いきなり「おい、ちょっと付き合え」と言われました。夜はよくお付き合いさせていただきましたが、日曜の昼に誘われることはほとんどありませんでした。先輩2人と私とで、病院の近くにあった、ある医院に行きました。そこには奥さんとお嬢さんがいらっしゃって、一緒にお茶を飲んで、帰りました。後で聞くと、お嬢さんと私を会わせることが目的だったのでした。

 この話は、私が嫌われたのか、また私にもその気がなかったためか、その後、何も進展しませんでした。何かと不器用な私を見るに見かねて、お世話くださったようにも思います。

 仕事ばかりではなく生活の面でも、S先輩のように活躍する、生きることは無理だと感じました。S先輩にストレスなんて皆無ではないかと思ったこともあります。あるいは、ストレスを逆にエネルギーにできる、逆転できる才能がある方なのだとも思いました。

 最後は双方とも転勤となり、お会いする機会はありませんでした。

 私は、何かあれば「S先輩に相談すればよい」と思っていました。しばらくしてから、がんを患っておられたのを耳にしましたが、結局、3年後に亡くなられました。以後五十数年、S先輩のような医師には会えていません。今でも、「こんな時はS先輩だったらどうされただろうか」などと考えます。

「リラの花さくキャバレーで会って、おとこやぶ医者、どこへ行く~」

 S先輩の十八番の歌です。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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