医療だけでは幸せになれない

統計学的に「正しい」が薬を飲む「正しさ」にはつながらない

個別の人にとって正しいかどうかはまた別問題
個別の人にとって正しいかどうかはまた別問題

 インターネットの普及は、何か調べたいと思えば、だれでも調べられる世界を実現した。その半面、情報が多すぎてどうにもならない状況も生み出した。情報がないよりはましかもしれないが、まったく正反対の情報がどちらもいかにも正しいかのように流されると、情報がないほうがいいのではないかという気もする。

 多くの情報の中から「正しい情報」を得ることはそれほど簡単ではない。ただ、薬やワクチンの効果についての「正しい情報」「正しくデザインされたランダム化比較試験の結果」、さらに「質の高いランダム化比較試験のメタ分析の結果」と言えば、統計学的には「正しい情報」ということになる。

 私が医者になった40年近く前の、高齢者の上の血圧だけが高い高血圧患者に対する降圧薬の効果についての正しい情報は、今から振り返れば「上の血圧が高い人ほど脳卒中が多いことは示されているが、それを降圧薬で下げて脳卒中が予防できるかどうかを検討したランダム化比較試験はない」というものであったが、それにもかかわらず、その時点で多くの患者が降圧薬を飲んでいた。

 もちろん下の血圧が高い人に対する降圧薬による脳卒中などの予防効果はすでに示されており、上の血圧も同様だろうということは、それなりに妥当な判断であったかもしれない。私自身も多くの降圧薬を処方していたひとりだ。

 さらにもう少し細かいことを言えば、40年前には、降圧薬による脳卒中予防効果は示されているものの、心筋梗塞や心不全の予防効果ははっきりしなかった。

 しかし、そこで降圧薬についてどんな変化が起こったかと言えば、β遮断薬、利尿薬という心筋梗塞や心不全の予防効果を示すことができなかった降圧薬を、脳卒中の予防効果すら示されていないCa拮抗薬、ACE阻害薬という当時としては新しい降圧薬に変更していくことであった。

 研修医時代に循環器内科をローテートしているときに、β遮断薬を飲んでいる患者が心不全で入院になると、「こんな薬を飲んでいるからダメなんだ。Ca拮抗薬かACE阻害薬に変更しないといけない」と、上級医に言われたことがある。

 しかし、これは今では間違いであることがわかっている。利尿薬、β遮断薬という古い降圧薬とCa拮抗薬、ACE阻害薬という新しい降圧薬を直接比較した多くのランダム化比較試験によって、心筋梗塞に対する効果はほぼ同等であり、心不全の予防効果はむしろ利尿薬で大きいことが示されている。

■ランダム化比較試験の結果はあくまで確率

 高血圧の治療の専門家ですら、これが現実であった。少なくとも医学的な「正しい情報」すら正しくは認識されていないし、何が正しいかということ自体、必ずしも共通の認識がなかった。それが今から40年前である。

 ただ40年を経て、治療や予防効果について、病態生理は重要だが仮説に過ぎず、ランダム化比較試験とそのメタ分析によって統計学的に効果が示される必要があるという共通の認識は、多くの医者に共有されるに至った。

 これは大きな進歩ではあったが、大きな副作用もあった。この「正しい情報」もまた「統計学的に正しい情報」に過ぎない。個別の人にとって正しいかどうかはまた別問題である。ランダム化比較試験によって示されるのは、5年間で10%の脳卒中が6%にまで少なくなるというあくまで確率である。これが統計学的にも意味のある差だと言われても、薬を飲む個人の中には「10%も6%も四捨五入すれば似たようなものではないか。それを効果ありとするのは薬を売りたい製薬会社の陰謀ではないか」という人が現れても不思議ではない。

「統計学的に正しい情報」から、「薬を飲むこの人にとって正しい情報」までの距離は遠い。「医学的に正しい情報」「社会にとって正しい情報」と言っても、「統計学的に正しい情報」とはずいぶん距離がある。

名郷直樹

名郷直樹

「武蔵国分寺公園クリニック」名誉院長、自治医大卒。東大薬学部非常勤講師、臨床研究適正評価教育機構理事。著書に「健康第一は間違っている」(筑摩選書)、「いずれくる死にそなえない」(生活の医療社)ほか多数。

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