上皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

ダメージを減らす「心筋保護液」の投与法は進歩し続けている

天野篤氏
天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

 安全で確実な心臓手術を行うために欠かせない「心筋保護」についてのお話の続きです。

 前回まで述べてきたように、心臓を停止させて行う手術では、血流が途絶えることで心筋細胞が障害され、術後に血流を再開しても心臓の収縮が不良で心機能が戻らなくなってしまいます。そこで、心筋になるべくダメージを与えないための心筋保護法が模索されてきました。そのひとつが「心筋保護液」と「心臓の冷却」です。

 心筋保護液は、カリウム、カルシウム、ナトリウム、マグネシウムなどの成分が含まれた特殊な薬液で、一定の間隔で心筋に注入します。同時に心筋細胞の代謝を落とすために心臓は10度以下程度まで冷やすのです。

 しかし、過去に心筋梗塞を起こして心機能が低下している状態の患者さんに対しての再手術では、そうした「心臓を冷却したうえで心筋保護液を使う方法」では、成績があまり良くありませんでした。そこで心筋保護液に血液を混ぜ、心臓の温度は20度くらいまで上げる方法が試され、良好な結果が多く報告されていきます。

 これを受け、今度は心臓の温度を「体温」くらいまで上げても問題ないのではないか、という意見が登場します。当時は心臓を冷却する方法が当たり前だった時代ですから、突拍子もない話だと考えられていました。しかし、心機能が悪化している人ほど、心臓を体温近くまで上げたほうが成績が良いという結果が続々と報告されたのです。

■「順行性」と「逆行性」を組み合わせる

 そしてさらに、心臓が“常温”なのだから、一定時間ごとに冷やして心筋保護液を注入するのではなく、できるだけ持続的に投与するための方法が模索されます。心筋保護液を投与している最中は、基本的に患部に対する手術操作ができません。そのため、頻繁に投与していると手術時間が延びてむしろ心筋のダメージが大きくなってしまいます。そこで、なるべく手術操作を妨げないような投与法として考案されたのが「逆行性投与」という方法です。

 それまでは心臓の冠動脈の入り口から心筋保護液を注入する「順行性投与」という方法が行われていました。ただ、この方法は手術操作の邪魔になってしまうので、持続的に投与するのは困難です。一方、逆行性投与は心臓につながる静脈の出口から血流とは反対向きに心筋保護液を送り込みます。これなら、たとえば冠動脈バイパス手術などでは手術操作の妨げにならず、持続的な投与が可能となるのです。

 この逆行性投与は数多くの研究で「順行性投与と心筋保護の効果は変わらない」という結果が示され、一時期、心筋保護液の投与法として主流になります。しかし、逆行性投与には欠点がありました。投与した心筋保護液が心臓の全体に行き渡らないのです。とりわけ、右側の心臓=右心室や右心房には到達しづらいことがわかりました。

 そんな欠点を克服するため、心筋保護液の投与法は、最終的に順行性投与と逆行性投与を組み合わせた方法に落ち着きました。現在、当院で採用している心筋保護の方法は、製薬会社から販売されている心筋保護液と、20度に冷やした血液を半分ずつ混ぜたものを、40分に1回の間隔で静脈側から逆行性投与し、60分に1回の間隔で動脈側から順行性投与するというものです。

 投与する心筋保護液の温度はガイドラインなどで決まっているわけではありません。施設や手術によって変わってきますが、だいたい15~30度くらいの間に設定され、心筋保護液を投与する機器が付随している人工心肺装置とのバランスが悪くならないような温度が採用されています。

 心筋保護液を投与する間隔も、とくに決まっていません。先ほども触れたように、心筋保護液を順行性で投与している間は、手術操作ができなくなります。もしも投与間隔が20分に1回とすれば、手術操作は20分間しかできません。それが40分に1回なら40分間続けて操作できることになります。つまり、投与間隔はできるだけ長いほうが望ましいといえます。

 そこで、これまでの経験から問題が起こらない範囲で投与間隔を少しずつ延ばしていき、逆行性で40分に1回、順行性で60分に1回という間隔に行き着いたのです。さらに、心臓の働きが著しく低下している患者さんの場合には、もう少しだけ投与間隔を詰めたり、手術操作の合間はずっと投与し続けるといったように臨機応変に対応しています。

 最前線の現場を知らない勉強不足の医師の中には、心筋保護液は30分に1回の間隔で投与しなければならないと主張しているケースも目にしますが、心臓手術の神髄を知らない単なる自己主張です。心筋保護液とその投与法は常に進歩し続けています。心筋保護の研究だけに医師としての人生を捧げた人もいるほど奥が深いですから、今後もさらに優れた方法が考案され進化していくでしょう。

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天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

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