がんと向き合い生きていく

膵臓がんで亡くなった先輩医師にはさまざまなことを教わった

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 私の先輩にあたるB先生は、出身大学で内科講師を務めた後、上京してがん専門病院に勤務し、ご自宅のある横浜から通勤されていました。

 私が国立がんセンター(当時)で3年間の内科研修を受けた際、B先生を訪ねてみました。それが、B先生にお会いした最初です。先生は笑顔で、とても歓迎してくれました。その後、長い間、私の「相談支援係」となってくださいました。

 がんセンター内に24時間住み込みとなって、ストレスがたくさんたまってしまう私を、B先生は2カ月に1回くらいのペースで新橋駅近くの居酒屋に招いてくださいました。予約した店の奥にある畳3畳の部屋が“いつもの場所”です。秋田のお酒と、きりたんぽ、シュウマイがおいしいお店でした。

 B先生はご自身でもおっしゃっていたように江戸っ子の“べらんめい調”で、いつもニコニコ、夜11時過ぎまで熱い徳利を何本もいただきました。お酒が進み、その勢いもあって、私はがんセンターでのいろいろな不満を口にしたと思います。そんな私の話をB先生はよく聞いてくださいました。

 B先生は、勤める病院は違っても同じがん化学療法の分野の臨床医師です。しかも、私より18歳も年上です。しかし、学問的な話はまったくされません。生活のこと、人間関係のこと、研修が終わった3年後のことなどを話しました。B先生が一緒に楽しんでくださっているように思えて、私はより甘えていたように思います。

 ある時は、横浜のご自宅に招待してくださいました。その時は、奥さんが料理されたフキを瓶に詰めて、お土産にいただきました。

 B先生には後輩の面倒をみることをたくさん教わったのですが、自分がB先生の立場になった時、後輩にこんなことまでしてあげられるかなと考えたこともありました。

■著書からはたくさん引用させていただいた

 がんセンターでの研修3年目の後半、M教授が翌年の春に上京されて新K病院の院長に、B先生はその消化器内科部長になることが急に決まりました。そしてその病院で、私はがんセンターから来られた部長と共に化学療法科という科を新設し、勤めることになったのです。

 最初は消化器内科と言われたのですが、これまで白血病と悪性リンパ腫を中心とした3年の研修だったこと、化学療法科の部長の「1年間だけでもお願いしたい」との勧めもあり、私はK先生の下ではなく、化学療法科にお世話になることになったのでした。「1年間だけ」という約束だったのですが、結局は延々と、私が定年退職する平成24年まで勤めさせていただきました。

 1972年、B先生は「がん化学療法の実際」という単行本を出版されました。当時は、固形がんに対する抗がん剤の専門書はほとんどなかった時代です。その後、私は論文を書く際にこの本からたくさん引用させていただいたと記憶しています。B先生は、横浜から片道1時間以上、満員電車で通勤される毎日でした。いつ論文を読み、本を書く時間があったのだろうか? 今でも不思議に思います。

 B先生から私が本当に教わったことは、「先輩とはこういうものだよ」ということだった気がします。

 私が心臓の手術をした数年後の同窓会の帰り、夜の駅のホームで、B先生は少し千鳥足になりながら、「おい、体に気をつけてな。無理すんなよ。死ぬなよ」と大きな声をかけてくれました。そして、反対方向の満員電車に乗られ、手を振って行かれました。それが、B先生とお会いできた最後でした。

 その2年後、B先生が膵臓がんで亡くなられたと聞きました。あれからすでに5年たちます。

 新橋駅近くの居酒屋を思い出します。いつも、ニコニコ、優しい目、べらんめい口調で、大きく私を包んでくださいました。

「おおい、体に気をつけてな。無理すんなよ」

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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