医療だけでは幸せになれない

なぜ、感染症と高血圧の治療効果を同一に語ってはいけないのか

渋谷のスクランブル交差点を行き交う人たち(C)共同通信社
渋谷のスクランブル交差点を行き交う人たち(C)共同通信社

 ここまで、情報そのものの正しさの問題を取り上げてきたが、その情報の正しさは常にある一定の集団についての結果であって、個別に起こることとの間には大きなギャップが存在する。これまで取り上げてきたマスクの情報も、いずれも集団を対象にした研究である。「感染症という病気の性質上、集団についての影響、効果が重要である」と言うと、「いや、そこに問題はない」との意見があるかもしれない。

 例えば、これまでも例として取り上げてきた高血圧との比較で考えてみよう。「高血圧を放っておいて脳卒中や心不全になったとしても、それを他人に感染させることはなく、降圧薬などの治療を強制する必要はない」と考えることができる。むろん、脳卒中になって家族や会社に迷惑をかけたり、医療機関に負担をかけたり、医療費の増大につながったり単に個人の問題として取り扱うのがむつかしい面も多くある。しかし、「自分の問題だから」と言うことも可能だろう。

 それが感染症になると、話が違ってくる。治療しなければ感染をさらに周囲に広げるリスクがあるために、高血圧では緩くとらえられがちな社会への影響を、感染症では真っ先に重視しなければならない。

 高血圧では、「ランダム化比較試験の結果で脳卒中が予防できる」といわれても、患者個人が「薬を飲まない」と判断することは困難なことではない。実際、患者から「降圧薬を飲んでも5年間で6~7%は脳卒中になるわけだし、飲まなくても10%が脳卒中になるくらいなら、降圧薬はいりません」と言われたら、その通りだというほかない。患者は医療を受ける権利だけでなく、医療を受けない権利もある。

■脳卒中は感染しないがコロナは感染する

 しかし、感染症ではそうはいかない。マスクにしろ、ワクチンにしろ、それを使うことは自分自身が感染しないというだけでなく、自分自身が感染源にならないという、公共性の問題にかかわる。個人への効果より、集団への効果が重視されるのである。10%の感染を6%に減らすという効果も、国全体で考えれば、何千万人の感染を防ぐということになる。マスクやワクチンに少しでも効果があるのなら、そこには個人での効果はさておき、集団に対する効果を優先するほかない。

 以前紹介したデンマークでの研究で1カ月間のコロナ感染にかかる率の差がマイナス0.3%で、95%信頼区間はマイナス1.2~0.4、また相対危険は0.82、95%信頼区間は0.54~1.23という結果を紹介した。これが患者個人にかかわる降圧薬の5年間の効果であれば、降圧薬はやめておこうかとなるかもしれない。ところが感染症ではそういうわけにはいかない。これが10カ月になれば、1年、2年になればとなると、マイナス0.3%が3%になり5%になるかもしれない。統計学的に差がなかったとはいえ、感染を半減させる効果の可能性は残されている。さらには観察研究を含んだメタ分析では、事実、感染を半減させるという結果が統計学的にも示されている。

 集団に対する結果はこのようにあいまいになることも多い。その場合、どう判断するのかはむつかしい。個人への影響と同じように、そのデータ解析の結果のみで判断するには、社会的影響が大きすぎるからだ。つまり、集団に対する結果のあいまいさは、集団に対してマスクを勧めないという明確な判断にはつなげにくいのである。むしろまだ強制した方がいいのではという判断も十分ありうる。

 さらにこの先には別の大きな問題がある。国が義務化も推奨もしないといっても、マスクをするのも、ワクチンを打つのも個人である。その個人個人が、マスクをする/しない、ワクチンを打つ/打たないという判断をしなければならない。その判断を個人個人がするのはむつかしい。そこで強制力を持って義務化する、さらには罰則規定を設けるということも行われる。これは降圧薬では決してないことだ。

 だからこそ、医療については考え続けることが重要なのである。そのために必要なリテラシー(情報を適切に理解して活用すること)やリテラシーを超えて垂れ流される膨大な情報、実際になされる国の判断、個人の対応などについて引き続き考えていきたい。

名郷直樹

名郷直樹

「武蔵国分寺公園クリニック」名誉院長、自治医大卒。東大薬学部非常勤講師、臨床研究適正評価教育機構理事。著書に「健康第一は間違っている」(筑摩選書)、「いずれくる死にそなえない」(生活の医療社)ほか多数。

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