独白 愉快な“病人”たち

4回目の手術前に遺書 仁科亜季子が振り返る壮絶がん治療

「孫が成人するまでは元気でいたい」と語る
「孫が成人するまでは元気でいたい」と語る/(C)日刊ゲンダイ

 3年前に「大腸がん」の手術を受ける前、初めて遺書を書きました。子供や孫のために、お金のことなんかまで細かく書いたんです。でも、無事に治って帰宅した時、すぐに破り捨てました(笑い)。

 過去3回の手術と放射線治療などの影響による腹内の癒着で、その大腸がんの手術は大変だったと知りました。無事にがんの切除は終わったのですが、縫った傷口が術後に感染症を起こして膿がたまってしまったんです。そのため、後日あらためて縫ったところのすぐ横の部分を8センチほど切開して膿を排出する処置を受けました。しかも、2度目に切開した傷口は縫わずにそのままで終わり。先生からは「お風呂で傷口を洗ってください」と言われました。それほど深く切開したわけではないにしても、パックリ傷口が開いた状態なのに……ウソみたいでしょう?

 遡ると、1991年の「子宮頚がん」から始まって、99年には「胃がん」で胃の3分の1を摘出しました。08年には「ジスト(悪性腫瘍)」で盲腸もろとも腫瘍を切除。そして大腸がんでは腸を20センチほど取りました。

■検査で偶然見つかった子宮頚がん

 それでも今があるのは“運がいい”んだと思うんです。こういうのって病院や先生との相性、いろいろな偶然の重なりがあるでしょう? 私の場合はうまく転がっているな、と思っています。

 そんな中でもいちばん印象深いのは、やはり最初の子宮頚がんのときのことです。私は38歳でした。2人の子供を連れ、親しくしているご家族と一緒に旅行に行ったんです。そこでひどい食あたりになったことが発見のきっかけになりました。

 帰国後、かかりつけの病院を受診した際、ついでに「最近、生理不順なんですけど、更年期でしょうか?」と相談してみたんです。「それじゃ検査してみましょう」という流れで偶然がんが見つかりました。後から先生に聞いた話では、「あの時に見つかっていなかったら2年ぐらいの命だったかも」とのことでした。

 ステージでいえば1~2の間でしたが、がんには“顔立ち”や“性格”があるらしくて、私のはひねくれもので、やんちゃだったみたいです。そのため、子宮、卵巣、リンパ節まで全部摘出となりました。当時はまだ「がん=死」というイメージが強かったので、手術に迷う余地はありません。まして子供は8歳と6歳です。先生に「何が何でもあと10年は生かしてください!」とつかみかからんばかりでした。

 治療は、抗がん剤、手術、放射線の順に行うことになり、「6カ月の長期入院」が予定されました。入院までの2週間はてんてこ舞い。自分の入院準備どころじゃありません。まずは、子供たちの夏休みをどうするかと考えて、サマースクールの資料を取り寄せて手続きを行い、家の中が張り紙だらけになるくらい指示書のようなものを張りまくり、「自分ががん?」と感傷にひたる暇などありませんでした。6カ月の予定だった入院は、私の負けず嫌いの性格もあって4カ月で退院できたのですが、つらくて長い4カ月でした。

■子供たちがいたから耐えられた

 治療はまず、抗がん剤は足の付け根からカテーテルで入れるんですけど、もう、熱湯が体の中でひっくり返ったみたいな痛みでした。今は薬も改良されて楽になっているようですが、当時はつらかった。病室では、足の付け根に“おもし”を乗せられて動けなくするんです。そんな状態で3分置きに吐き気がくるものだから、顔だけ横に向けて寝たまま吐いたりしていました。しかも1度目は薬が合わず、2度もやることになって……。

 抗がん剤の副作用もありました。笑っちゃうんですけど、当時は「氷のヘルメット」というものがあったんです。かぶって毛根を引き締めて、脱毛を軽減するとか……。私もかぶりましたが、効果はありませんでした。ある朝、起きたら枕が真っ黒。指で髪をすくと、何の抵抗もなくごっそり抜けてしまうんです。3日でツルツルになりました。そんな時、子供って空気を読むんですかね。「一休さんみたい」と笑ってくれて救われました。

 その後で受けた手術は8時間に及び、その時の輸血によって「C型肝炎」のキャリアーになってしまいました。放射線治療は30回以上と長く、皮膚がやけどのように剥がれてきたり、だんだん体力が落ちて車椅子移動になったり……。周りの患者さんが亡くなるのを日々感じて、精神的にも追い込まれました。それでも、子供たちがいたから耐えられたんだと思います。

 いろいろありましたが、今は孫の成長が楽しみです。孫が成人するまでは元気でいたいと思っています。ストレッチやボイストレーニングに通い、去年は歯の矯正もしました。一生、自分の歯で食べ、自分の足で歩くのが目標です。

▽にしな・あきこ 1953年、東京都生まれ。72年にNHKのドラマ「白鳥の歌なんか聞えない」で女優デビュー。TBS系「人間の歌」シリーズなどで清純派女優として活躍した。79年から活動を休止していたが、99年に復帰。女優業のほか、バラエティー番組での出演や、がん治療に関する講演も行っている。現在、NHKドラマ10「この声をきみに My voice for you」に出演中。

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