がんと向き合い生きていく

誰ともしゃべらなかった患者さんを満開の桜の木の下に連れていくと…

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 桜はすっかり散ってしまいましたが、この季節になると思い浮かぶ患者さんがいます。当時85歳で、79歳のときに肝臓がんの手術を受けたAさん(男性)です。

 手術後、Aさんはずっとひとり暮らしを続けていましたが、6年ほど経って食事が取れなくなり、病院に入院。超音波の検査で肝臓に大きな腫瘍が見つかりました。そのことを知ったAさんは、「これ以上の検査はしない。医療的な処置は望まない」と希望され、息子さんも同意したことで介護施設に移りました。

 施設に入ったときから、Aさんはコーヒーやお茶はよく飲まれていたのですが、食事はほんのわずか箸をつける程度でした。

 そして、ほとんど誰ともしゃべることはなく、テレビやラジオもつけずに個室で黙って日々を過ごされています。患者さんの憩いの場になっているデイルームに行くことも拒否していて、看護師が血圧を測るのも嫌がっているようでした。ただ、幸いなことに、痛みはなさそうでした。

「こんにちは」

■初めて見る笑顔で握手を求められた

 あるとき、私はAさんの部屋を訪ねました。髪形が短い角刈りだったAさんは、ベッドのそばの車いすに座っていて、ぎょろりと斜め後ろ向きに私をにらみつけるような感じで振り向きます。そんなAさんを見て、私はふと40年も昔、映画館で見た“やくざ役”の高倉健さんを思い出しました。それからは、Aさんに話しかけても答えはなく、近づいた私を手で払いのけようとされました。そのとき、私は「じゃあ、また来ます」と言って部屋を出ることにしました。

 後日、あらためて部屋にうかがったときも、Aさんは車いすに乗って窓の外を眺めているか、ベッドで横になっているかでした。ただ、診察では上腹部に大きな腫瘤を触れたことを覚えています。それでも、Aさんは点滴などの治療は首を横に振って拒否され、日に日に痩せていきました。そして、息子さんもこの状況をしっかり理解されていました。

 あるとき看護師さんの前で、私は「介護士や看護師さんは、コーヒーを持っていったり、体をきれいにしたり、やれることはいろいろあるけど、私はAさんに何もしてあげられないな……」とつぶやきました。それを聞いた看護師さんは、ただうなずくだけでした。

 Aさんが入所していた介護施設は川のすぐそばにありました。円筒形の白い建物で玄関正面には吉野桜の大木があり3月末になると花が満開になりました。施設の1階玄関からは見上げ、2階フロアからも少し見上げ、3階からはほぼ正面、そして4階からは見下ろす……という違いはありましたが、どの階から見ても視界はすべて桜で埋め尽くされ息ができなくなるほどの見事さでした。

 しかし、Aさんの個室の窓からは、隣のビルしか見えません。私は看護師さんに「Aさんが車いすに乗っているときにサッと車いすを押して、玄関前の桜を見に連れていってほしい。嫌がるかもしれないが、わずかだけでも……」とお願いしてみました。

 さっそく、看護師さんは車いすに乗ったAさんをエレベーターで1階まで押していき、玄関から外に出て桜の木の前に連れていきました。Aさんは満開の桜をしばらく見てから、「寒い」とひとことつぶやいただけだったそうです。

 翌日、私が玄関前のロビーを通りかかると、車いすに乗ったAさんと看護師さんが桜の木の前で花を見上げていました。そして、私を見つけたAさんが右手を挙げ、初めて見る笑顔で握手を求めてきたのです。私はとてもうれしくなりました。 次の日からAさんの部屋の前を通ると、これまで同様に無言でしたが、私に手を振ってくれるようになりました。

 桜の花も散って葉が生えてきた頃、Aさんは血圧が下がって意識がなくなりました。駆けつけた息子さんが「お酒を飲ませてやりたかった……」と、意識のないAさんの唇をガーゼに浸したお酒で濡らした光景を今も思い出します。

 Aさんが、ひとりで何を考えていらしたのかは分かりません。黙って死とジッと向き合っていたのでしょうか。私は、どんな死であろうと優劣などは全くないと思っています。ただ、そのような最期を過ごされたAさんという患者さんがいた。私にはとてもできそうにありません。

 花びらが散って、たくさん葉が生えてきた桜の大木を見て、その中でAさんが笑っているような気がします。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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