独白 愉快な“病人”たち

ラーメン完食は手術5カ月後 藤原組長が胃がんとの闘い語る

藤原喜明さん
藤原喜明さん(C)日刊ゲンダイ

「残念な結果が出ました」

 藤原喜明さん(69)は電話でそう告げられた。3日前に胃カメラ検査を受けた病院からで「胃がんが見つかった」とのことだった。

 4センチ大、ステージ3a期で、5年生存率は当時41.8%ぐらいだったかな。そりゃショックだった。

 だけど割とすぐに立ち直った。考えてみりゃ死ぬっていっても誰でも一度は死ぬわけだから、それが30年後か明日かの違いしかない。「どうせ死ぬならカッコよく死んでやる」と思ったね。

 検査を受けたきっかけは、ひょんなことで知り合った人の快気祝いで食事したとき、彼のお母さんに「あなた、お箸の使い方が下手ね。お母さんに教わらなかったの?」と言われたことだった。

 当時、右肘を壊して指先もうまく動かせなかったから、ちょっとカチンときてケガの状態を話したんだ。すると「いい病院があるから紹介してあげる」と言われてね。肘も限界だったから、ちょっと遠かったけど行って手術を受けた。

 本当なら1週間入院のところを「1週間後に抜糸に来る」という約束で、1泊で退院。そのとき「抜糸でまたここまで来るなら」と大腸内視鏡検査を予約して帰った。で、検査を受けたらまた「結果は1週間後」と言われたので、結果だけ聞きに来るのが嫌で、今度は胃カメラ検査を予約して帰ったというわけ。

 俺は病院嫌いだから健康診断は何十年も受けていなかった。「お箸が下手」と言われなかったら検査なんてしなかったし、医者には「あと1カ月遅かったらもうダメだった」と言われたから、あのお母さんは命の恩人だな(笑い)。

 手術では胃を半分切って、胆のう、胆管を切除。さらに逆流性食道炎にならないように小腸を何センチか切って食道につなげたらしい。本来なら胃の全摘が理想みたいなんだが、プロレスをやるためには胃は残した方がいいということだった。

「絶対カムバックするだろうから」と先生が知恵を絞ってくれたんだ。

 胸の下からへその下までガッツリ切ってるわけだから痛くないわけないんだけど、集中治療室で看護師さんから「痛くありませんか?」と聞かれるたびに「大丈夫です」と言い続けていた。みんなガマンしていると思ってたからさ。術後4日も経ってからモルヒネっていう痛み止めがあることを知って、4日目にやっと導入。そうしたらまぁよく眠れたよ(笑い)。

 抜糸は普通、術後2週間ぐらいらしいんだけど、俺は4日で抜糸、2週間で退院という異例の早さで回復できた。もともとの回復力が異常に高い上に早くからリハビリもしたからね。

 看護師さんに「寝たままだと腸が動かなくて癒着するから」と言われ、手術翌日から点滴棒を引きずって歩いたよ。その翌日には階段の上り下り。すれ違う看護師さんに二度見されたとき「ざまぁみろ、俺はプロレスラーだ」と内心ガッツポーズだった。

■ラーメン一杯を完食して涙が出た

 ただ、食事は薄味で物足りなかった。だから本当はダメなんだけど、コンビニで梅干しやおでんやプリンを買い食いしてた。1週間もすると脂っこいものがどうしても食べたくなり、病院を抜け出して豚骨ラーメンを食べに行ったんだ。だけど、半分ぐらいで気持ち悪くなってトイレで吐いた。ショックだったよ。

 その4日後ぐらいにギョーザを食べにいったら、ギョーザは1皿半食えた。まさか食えると思わなかったからうれしかったな。でも、ラーメンはなかなか食べられなくて、完食できたのは手術から5カ月後だった。「ラーメン一杯食えた!」ってうれしくて本当に涙が出たよ。

 退院後は抗がん剤治療があった。強烈な薬を8クール。つまり、3週間飲んで1週間休むのを8回だね。その後、軽めの薬を毎日、2年間飲み続けた。それはマジメに実行したよ。でも、筋トレしてもぜんぜん筋肉がつかなかった。抗がん剤は、新しい細胞を作らないようにする薬だから筋肉もつかないんだ。粘膜も弱くなって目はかゆいし、歯茎から血が出るし、大変だったよ。

 一番おっかなかったのは“ダンピング症状”ってやつ。胃が小さい分、小腸で多くの糖分が吸収されるから血糖値の上下が急激らしいんだ。食事して2~3時間後、急激に血糖値が低下して気持ち悪くなる症状なんだけど、そんなことがあるなんて知らなかったから、初めてのときは死ぬかと思った。車の運転中だったからね。今は黒砂糖とコーラを常備して対処している。

 病気から学んだことなんて何もないよ(笑い)。強いていえば、何でもないことが幸せのひとつだと感じるようになったことかな。たとえば、“朝、アレが立ってる”とかな。アレといっても茶柱だぞ(笑い)。

▽ふじわら・よしあき 1949年、岩手県生まれ。23歳で新日本プロレスに入門し、アントニオ猪木のスパーリングパートナーに抜擢される。「関節技の鬼」の異名を取って人気を博した。1991年「藤原組」を旗揚げしてフリーに転身。プロレスラーとして現役で活動しつつ、俳優、声優、イラストや陶芸などのアーティストとしても活躍している。

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