がんと向き合い生きていく

勉強を欠かさなかった先輩医師は"霊水"を信じたのだろうか

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 以前のことになりますが、某大学医学部のS教授の友人が膵臓がんの末期状態で入院されました。S教授は私に会いに来られびっくりするような相談をされたのです。

「このまま抗がん剤が効かなくなって、命が短いのは分かっている。ヒ素を飲ませてくれないか?先生さえよければ持参する。責任は私が取る。私は効くと思っている。どうだ?」

 S教授は動物実験でそのような研究をされているようでした。

 私は、「動物では効くかもしれませんが、医薬品になっていないものを、個人的に臨床で試してみるのは無理です」と、きっぱり断りました。S教授がどのようなつもりで「責任を取る」と話されたかは分かりません。 その後、ヒ素は「三酸化ヒ素」として医薬品が開発され、急性前骨髄球性白血病に効果を認め、いまは市販されています。

 変わって、私の先輩であるN先生のお話です。この先輩は化学が得意で、がん細胞の化学的観点からの研究をされていました。普段はニコニコされていますが、怒ると怖い方でした。

 ある日、たまたま廊下で、お互いの襟をつかみ合うほどのケンカを目撃しました。N先生と呼吸器内科部長でした。怒鳴り合う声を聞いていると、研究室に置いてある超遠心機が壊れたことが原因のようでした。N先生の許可なしに呼吸器内科部長が使ったから壊れたというのです。

「おまえのせいで、がんの制圧が遅れる!」

 その大きな声、その意気込み、その言葉に驚きました。

 N先生に嫌われると大変だ……みんな怖がっていましたが、ある時、某大学医学部の教授に栄転されていきました。われわれはホッとしました。それが十数年たって、また同じ病院で働くことになるとは夢にも思いませんでした。

 N先生が現役の頃、時々、私は部屋に呼ばれ、用件が済むと学問の話ばかりではなく世間話もたくさんされました。「○○さんは材木屋の息子でね」とか、「あの人のおじいさんは男爵で……」などと、楽しそうに話されていたことを思い出します。

■パンフレットを見てなんとも答えようがなかった

 引退してからは、月に1回くらい病院の図書室を訪れ、文献を探して勉強されているようでした。その際、勉強を終えて帰られる前に私の部屋に立ち寄ることもありました。私が不在にしていると、文献のコピーを置いていかれます。多くは最新の英文で書かれた論文でした。

 部屋に私がいるときは、ニコニコしながら「これを読んでみてください」と入って来られます。ある時は「肝臓がんの発生について面白く書いてあります」と、ある時は「がんはこんなことまで分かってきました」と……。私は「年老いられても勉強が好きなんだ。すごいな」と、いつもそう思っていました。

 ある日のことです。いつものように私の部屋を訪れたN先生が「これを見てください。この水、私は効果があると思うのだがどうだろう」と言いながら、パンフレットを差し出されました。

 それを目にして私は訝りました。「○○霊水」と書かれているのです。私はなんとも答えに困りました。

「そのパンフレットは置いていくから、読んでおいてください」

 そう言って、N先生は帰られました。

 霊水を紹介しているパンフレットには、宗教的なことは書かれていませんでした。水に含まれている成分、NaやMgなどについての説明がありました。効能として、延命、がん、高血圧などと記されています。

 私は、ある有名な寺にある「滝の水」を思い出しました。参拝した後、多くの方がペットボトルにその水を汲まれていきます。御利益に、延命、恋愛成就、学業成就とあります。なるほど、神社のお守りと同じです。

 N先生が次に来られた時、「どうだった?」と聞かれ、私は「なんとも答えようがありません」と返事をしました。N先生ともあろう方が、あの科学者が、このような水を信じるのだろうか? とても疑問でしたが、そのワケを聞くことはしませんでした。

 その後、N先生はこの水の話はまったくされなくなりました。

「人間は科学だけではない。すべてが科学で説明できるものではない」

 N先生は、私にそのようなことを教えたかったのかもしれません。

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佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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