以前、ある病棟を回診した時にこんな出来事がありました。
私はカルテを確認してから男性の4人部屋に入り、一人一人に「どうぞ頑張ってください」と声をかけました。3人の患者さんは、それぞれニッコリされて「はい」と答えてくれたのですが、窓側のベッドにいる4人目の患者Aさん(当時62歳)は、こう口にされました。
「先生、時々お腹が痛むのに、担当医からは退院しろと言われました」
私はすぐには返事ができず、「よかったら後でお話をお聞きしたいのですが、よろしいですか?」とたずねました。すると、Aさんは「はい」とうなずかれました。
それから2時間後、面談室にAさん、私、看護師の3人が集まりました。Aさんは進行した膵臓がんで、がんを切除する手術は無理と判断され、今回は腹痛を繰り返していたための入院でした。
Aさんはこんな話を続けました。
◇ ◇ ◇
実は、廊下側のCさんとケンカになりました。
「カーテンをしていても、消灯台の明かりが天井の方で漏れるから明るい」と言われたのです。険悪になったきっかけは、夜に私が何度もトイレに行くもので、怒ったCさんから「うるさいな」と言われたことでした。
昨日の朝、看護師さんから「Aさん、トイレが近いなら廊下側のベッドに代わりましょうか?」と聞かれました。でも、私は窓側がいいのです。外のイチョウの木が見えて、気持ちが和むのです。
そんなことがあって、けさ、Cさんから「あなたは勝手な人だ」と言われ、胸ぐらをつかみ合ってのケンカになりました。その時、当直の先生と看護師さんが飛んできました。そして、担当医から「ケンカなんてするなら退院してください」と言われたのです。
私はすぐ謝って、「おとなしくしていますから、腹の調子が治まるまでこのままおいてください」とお願いしました。入院する時の案内に書いてある「療養生活について守らなければならないこと」は読みました。でも、腹が痛いままで退院して、たった1人で家にいたら死んでしまいます。私には家族も親戚もいませんから。
どうせ、私の命はもう長くないでしょう。死が近くに迫ってもケンカとは……。でも、まだケンカする元気があるんですよ。何か私の人生そのもののようです。Cさんとはそりが合わないのです。あの人もすぐにカッとなる人でしょう?
◇ ◇ ◇
しばらく沈黙が続いた後、私は「体の調子が悪いと気持ちも大変ですよね。イライラする気持ちわかります。早く良くなるように、どうぞ頑張ってください」と言葉をかけました。そして、看護師からは「それではAさん、もうケンカはしないでね。廊下側の方がトイレが近くて、夜、他の患者さんに迷惑になることが少ないと思うし、場合によっては廊下側に代わってもらいますからね」との注意がありました。
うなずいたAさんは、さらにこんな話を続けます。
「先生、そういえば、私は猫を1匹飼っていましてね。生まれたばかりの時に拾ってきて、しつけはしっかりしています。ウンチもおしっこも自らトイレに行って済ませますよ。でも今回の入院で、そのまま放してきました。勝手に外にも出られますが、食べ物はどうしているのか……それを心配しています」
手術のため外科に移る予定だったケンカ相手のCさんは、翌日には外科病棟へ移り、4人部屋から居なくなりました。ところがその晩、Aさんの腹痛がひどくなり、翌日には腸閉塞のため緊急手術になって、Cさんと同じ外科病棟に移ったのでした。
ストレッチャーに乗せられたAさんとCさんの2人は、手術室の待機フロアで偶然にも顔を合わせ、お互いに手を上げてあいさつしたそうです。こんな場面があったことを、後になって看護師が笑いながら教えてくれました。
Cさんは予定の手術が無事に終わって7日後に退院。Aさんの緊急手術では、膵臓がんには手がつけられませんでしたが、腸閉塞の方は腸をつなぐ手術をして腹痛がなくなり、こちらも同じ7日後に退院し、以後は外来通院となりました。
私は、人生、偶然が重なることもあるのだなと思いました。ひょっとしたら、あのお2人の間には“縁”があるのかもしれません。
がんと向き合い生きていく