がんと向き合い生きていく

年の暮れに届いた喪中はがきで頭に思い浮かぶ旧友との思い出

 毎年、暮れが近づくと「喪中はがき」が届きます。親戚のだれだれが亡くなって……などと書いてあれば分かるのですが、それがないと「どなたが亡くなったのだろう」と気になってしまいます。「母が97歳で……」とか、「祖父が93歳で……」といった記載があればそれなりに納得しますが、若い方が亡くなると、かわいそうでシュンとしてしまいます。

「年頭のご挨拶は失礼させていただきます」

 同級のS君が亡くなった。奥さんからはがきが届いたのです。

 もう、40年近く会っていません。そういえば、S君とは毎年年賀状を交換していたのですが、昨年は来ませんでした。

 気になって、電話をしてみました。奥さんが出ました。最初は私に気づかなかったようでしたが、すぐに分かってくれました。

 膵臓がんでした。S君は病院に入院するのを嫌がって、6カ月の間、自宅で奥さんと娘さんが看病していたようです。最後は褥瘡(床ずれ)をつくらないように、体位を時間ごとに変えたと話されました。

 電話の声は、意外とさばさばしていたように感じました。きっとS君をたくさん看病され、彼の「気ままさ」をたくさん支えられたのだと思います。

■がんはいつ制圧できるかとしつこく聞かれ…

 S君は何かと規格外のところがありました。あけっぴろげで、悩んでいるようなところを見たことがありません。ほら吹きのようなところもありましたが、いつも明るいのが私にはうらやましい性格に思えました。とりわけ、高校野球が好きでした。やたらと故郷の高校を自慢していました。

 学生時代、下宿は一緒ではありませんでしたが、日曜日になるとバットとグラブを持って、朝早くから野球に誘ってきました。私の下宿まで迎えにくるのです。数人が集まって、大学のグラウンドで練習をしました。彼はみんなが嫌がるキャッチャーをやってくれました。中には野球の理論とか、バットの持ち方とか、うるさく言うやつもいましたが、S君は一緒に楽しく汗をかきました。

 S君は、あまり食べずに酒を飲みました。そして、田舎の自慢を繰り返し話します。日本酒が大好きでした。人柄はとてもいい男ですが、酒を多く飲み過ぎると目がすわった感じになって、同じことを繰り返し言ってきます。

「がんはいつ制圧できるか?」

 それをしつこく繰り返し、私は不愉快になったこともありました。ただ、喧嘩になったことは一度もありません。翌日にはすっかり忘れたごとく、いつもの明るい感じに戻っているのが不思議なくらいでした。

 卒業してからは、大学の研究室で骨髄の脂肪の研究をしていたようです。がん制圧にどこまで迫ったかは分かりませんが、牛の骨髄をたくさん集めて研究していると聞いたことがあります。

 ある学会でT先輩からこんなエピソードを聞きました。T先輩とS君がお酒を飲んで、寝台夜行列車に乗って某学会に出かけた時のことです。S君はT先輩に「駅が近づいたら僕が起こすから……」と申し出ました。それを聞いたT先輩は安心して寝たといいますが、目的の駅に着いてから起こされ、驚いて下着姿のまま旅行かばんと服を手に持って、駅のホームに飛び出したそうです。T先輩は「ひどい、ひどい」と言って、笑っていました。

 学会ではS君の研究発表があり、司会の座長が「この研究の発表の意図は?」と尋ねたといいます。S君は「先輩に発表するように言われたから発表しました」と答え、T先輩はとても慌てたそうです。それでも、憎まれない、憎めない性格なのです。

 ある日曜日、病院の職員住宅に、S君の田舎が出身のお相撲さんがやって来ました。体の大きな、幕内の有名な力士でした。子供たちは、お相撲さんに抱っこされたり、まとわりついて、とてもはしゃいでいました。みんなが喜んでいるところを見て、S君はだれよりも喜んでいたように思います。

 いつも優しくほほ笑んでいたS君。がん制圧を夢見た仲間でした。

 S君、ご苦労さまでした。ありがとう。合掌。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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