先日、医者を対象とした臨床研究コースの研究発表会に参加したときのことである。複数の発表者が、「個人的な疑問としては」という言葉を枕にして自身の発表をしたのだが、そのあとに続く発表内容が、個人的どころか、どちらかというと一般的で、みんな同じように誰でも言いそうな内容であったことが印象に残った。
なぜそこが印象に残ったかといえば、コロナの流行についていろいろ考えていたことがおそらく影響している。
この状況は「個人個人が判断しているにもかかわらずみんながマスクをしていること」と重なっている、そう思えたからだ。
大多数の人が屋外でもマスクを着けている現状に対して、同調圧力の結果、みんながしているから私もするという日本の特徴が表れているという解釈がある。しかしここには、同調圧力とはまた違った、個別の判断と一般的な判断のつながりがある。
個人的と言いつつ一般的なことを言う状況は、“みんながマスクをしているのは、周りがしているから”というだけではなく、個人的な判断の結果が“みんなマスク”という現実をつくっているということかもしれない。
その個人的な判断が、一体どんな判断なのか、少し考えてみたい。
■マスク着用に対する態度は日本的な“何か”と深く関係している
先に紹介した研究発表会では、発表者が「個人的な疑問なんですが」と言うときの、なんとなく申し訳なさそうな雰囲気が、どの発表者にも共通しているように思われる。これはどういうことだろうか。「個人的な疑問」は「私が勝手に思っているだけで、たいして重要なものではないかもしれませんが」という言い訳がましいところや、あるいは「私のような者が個人的な考えを述べるのは厚かましいですが」という謙遜みたいなことが含意されている、というのがひとつの仮説である。
ここでの「個人的」には、何か「自分勝手」とか「非常識」とか、そんなことがそもそも含まれている感じがする。
さらに言えば、社会人として、研究者として、「個人的」であってはならない部分を常に気にしているということかもしれない。そうした気持ちが、本来の個人的な考えを抑制し、結果的に一般的なことしか言えなくなっているということではないか、と思うのである。
■本当は着用した方がいいと思ってる?
考えることですら「個人的」には遠慮がある。そうだとすれば「行動」のレベルでは、さらに「個人的」が困難になる。これは同調というより、抑圧といった方がいいのかもしれない。
何を考えているかは、言わなければ他人にはわからない。しかし、行動は周囲に見えてしまう。個人的な考えより、個人的な行動にはさらに抑制がかかる。
と、ここまで書いて、今自分が書いていることも、一般的なことに過ぎないと気づく。同じ言葉で考えれば、同じような考えが出てくる。だからこそ話が通じるわけで、これはじつは日本語の問題に過ぎないのではないか、とそんな考えが浮かんでくる。
英語で「I think」というフレーズに対応する日本語があるかというと、ないような気がする。「私は~と考える」というような語り口は、日常の中ではほとんど聞いたことがない。
そんな中で最近よく耳にするのが「~と思っていて」というフレーズだ。ここの主語は「私」であるが、「私は」は省略され、「思う」という部分が「思っていて」と、「思う」と言い切らずなんだかはぐらかされる。このストレートではない「思っていて」という表現は、日本語における「個人」というものをなんだか象徴している感じがする。
先の研究発表者の意見も、最近のはやりの表現を用いて「個人的には~と思っていて」と言えば腑に落ちる部分がある。コロナのマスク着用に対する態度も、この「思っていて」というフレーズに象徴される日本的な何かと深く関係している。
「私も個人的にはマスクを着けた方がいいと思っていて」というのが今の日本の現状なのだ。