独白 愉快な“病人”たち

20年前に脳出血で倒れたピアニストの舘野泉さん…医師は「もうピアノを弾けないだろう」と言っていた

舘野泉さん(C)日刊ゲンダイ
舘野泉さん(ピアニスト/87歳)=脳出血

 もし神様が「おまえはいい子だから、また両手でピアノを弾けるようにしてあげる」と言っても、「僕はけっこうです」と断ります。だって左手だけで十分満足していて、不自由は何にもないですから。

 脳出血で倒れたのは、2002年1月、フィンランド第2の都市タンペレで開催したコンサートでした。いつものようにコンサートが始まって、最後の曲の途中までは何でもありませんでした。でも、残り2分ぐらいになって右手がだんだん動かなくなってきたのです。最後の最後は完全に止まってしまって、左手だけで弾き終えました。しかし、立ち上がって、お辞儀をして2、3歩歩いたところで意識がなくなって倒れたのです。

 気づいたらステージの下に横たえられていました。演奏直前に会った取材記者が真上から僕の顔をのぞき込んで、何かメモしていたのが見えて「なんて嫌なやつだ」と思っていたら、また気を失いました。15分後に救急車が到着し、近くの大学病院に搬送され5日間入院しました。ほぼ意識がなく、そのときのことはあまり覚えていません。

 脳の出血は3.5センチぐらい広がっていたそうです。メスを入れられない部分だったので、自然回復を待つほかはないとのことでした。多くの医師は「彼はもうピアノを弾けないだろう」と言っていたそうです。

 その後、自宅があるヘルシンキの病院に移送され、そこで2カ月入院しました。初めの1カ月は身動きができない重症患者の部屋で過ごし、2カ月目からは一般病棟に移ってリハビリが始まりました。状態は右半身不随。立つこと、歩くことなど、7種類ぐらいのリハビリを受けました。それがね、楽しかったんです。

 話すこともできず、自分がピアニストであるという意識すらなかったのですが、記憶をすること、記憶を呼び戻すこと、文章を作って話すことなどのリハビリがとても面白かった。他の患者は無気力でしたが、僕は毎日張り切って取り組みました。

 リハビリ2週間で「彼は回復状態がいいから退院でもいいと思う」という話になりました。でも、そこで僕は「リハビリがとっても面白いから、あと2週間いさせてください」とお願いして、2週間余計に入院したんです(笑)。

世界中の作曲家から左手の曲が届き、今では130曲に(C)日刊ゲンダイ
息子が「左手のための曲」をピアノの上にこっそり置いていった

 ただ、退院後は思うようにならない現実にぶつかりました。すぐにピアノに向かいましたが、右手はまるでコントロールが利きません。今でもそうですけど、勝手に動いてしまうのです。家にいても自由に歩けないので何もできません。家内(歌手のマリア・タテノさん)は、講師を務めていた大学に教えに行ってしまうし、ひとりぼっちで寝ていても退屈でつまらない。

 だからある日、意を決して家から50メートルほど先のカフェにパンを買いに出かけたのです。店に行くだけで体力を使い果たして、帰り道はさらに苦労しました。家に戻った頃にはパンを食べる気力もなく、ベッドで熟睡。そんなときに限って家内が大学から電話をくれて、私が電話に出なかったものだから慌てて帰って来たら、ベッドでグーグー寝ていたなんてこともありました。

 そのあとも200メートル先のデパートまで行くなど、少しずつ歩けるようになりました。歩けるといっても右脚を引きずりながらですけどね。

 みんな、私のピアノは終わったと思って慰めてくれました。「文才があるし、写真も上手だから回想録でも書いて、奥さんとおいしいものでも食べてのんびりしてください」とかね。でも、私はそういうことに全然興味がなかった。同時に絶望もなかったのです。コントロールの利かない勝手な右手を自虐ネタにしてよく笑っていました。家内も後年、「あの頃ほど2人で笑ったことないわね」と言うほど。当時は演奏会で世界中を飛び回っていたので、「これからはずっと私のところにいてくれるのね」と喜んでくれていました。その家内も今年3月に他界してしまいましたけれど……。

 復帰のきっかけは、倒れてから2年後、米国に留学していた息子が帰省したとき、何も言わずに「左手のための曲」の楽譜をこっそりピアノの上に置いていったことでした。何だろう? と思ってそれを見た途端、「これでやればいいんだ!」と思って、2日後には30年来の同志、作曲家の間宮芳生さんに「僕はこれから左手だけでやっていきます。1年後に東京、大阪、札幌、福岡、仙台で復帰リサイタルをするから、左手の曲を書いてくれませんか?」とファクスを送っていました。

 同様にフィンランドの作曲家ノルドグレンからも左手の新曲が届き、04年4月から5都市での復帰コンサートを行いました。どこも満席でした。歓喜したというより、「自分がいるべき場所に戻ってきたな」という静かな気持ちでした。

 それからは、また以前のように頻繁に演奏会をするようになり、世界中の作曲家が左手の曲を書いてくれて、今では130曲ほどになりました。先月も新しい曲が届いたばかり。常に新しい曲を練習するので、頭も使っています。そして、僕の演奏をみんなが聞いてくれる。それが生きることにつながっている。まさに、僕は“愉快な病人”です。

(聞き手=松永詠美子)

▽舘野泉(たての・いずみ) 1936年、東京都出身。東京芸術大学音楽学部ピアノ学科を首席で卒業。64年からフィンランドのヘルシンキに居住し、国立シベリウスアカデミーの教授を経て、81年から世界を飛び回る演奏家として活躍。2002年に脳出血で右半身不随になるも左手のピアニストとして復活し、世界中で演奏している。日本では来年2月25日、「舘野泉ピアノリサイタル」(東京・清瀬けやきホール)が開催予定。



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